歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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やさしい俊寛 その三 「是 乗せてゆけ 具してゆけ」

ただいま歌舞伎座で上演中の

秀山祭九月大歌舞伎

夜の部「俊寛」は歌舞伎の定番といえる演目のひとつですので、

この機会にと少しばかりお話しております。

芝居見物の楽しみのお役に立てればうれしく思います!

 

是 乗せてゆけ 具してゆけ

俊寛(しゅんかん)は、

1719年(享保4年)の8月に大坂は竹本座にて初演された人形浄瑠璃の演目。

歌舞伎としては翌年のお正月に大坂は中の座にて初演されました。

 

日本のシェイクスピアと呼ばれる天才・近松門左衛門の作で、

本来の題名は「平家女護島(へいけにょごのしま)」といって、

全五段からなる長いお話です。

現在呼ばれている「俊寛」という名前は、

繰り返し繰り返し上演されている二段目の鬼界ヶ島の段の呼び名であります。

 

1、3人で孤島に島流しにされていて、

2、ある日、赦免の知らせを受けるが、

3、ただひとり自分の名前だけがなく、

4、孤独と絶望の中で仲間の乗った船を見送る…

 

といった流れですが、詳しいあらすじをご説明する必要もないほどに、

見ていれば気持ちがありありとわかる演目です。

 

前回のお話で鹿ケ谷事件について調べていて、

俊寛僧都という人物がどうして平家を謀ったのかが気になったため

少しばかり調べてみましたので補足しておきます。

 

仁和寺法印寛雅を父にもった俊寛は、

20代前半から法勝寺執行として立派な法勝寺領をおさめ、

後白河院の関係の仏事をになうことで後白河院から大変信頼されていたのだそうです。

永いこと後白河院のそばで仕えていたために、

力を強める平氏たちへの不満を募らせていたものと想像できます。

俊寛が流罪になった後も、後白河院は巧みに永らえたことを思うと

なんだか切ないような思いがします。

 

是 乗せてゆけ 具してゆけ」という胸をしめつけるような切実なことばが、

俊寛の辞世の句として知られています。

俊寛自体も悪いことを企んでいた人物であったのですが、

やはりこうした悲劇的な境遇というのは日本人の心を捉えるようです。

 

そして、最も驚いた点は、俊寛がまだ30代であったということです…!

芝居の中では結構なおじいさんのようなイメージでしたので、

若くとも50代くらいかなぁと想像していたのですが

生年は1143?年、没年は1179?年とされていますので

30代後半で亡くなっているようなのであります。

その若さですと、妻や娘への思いというのも味わいが変わってきますね。

舞台の上の俊寛をさらにリアリティをもって感じられそうです。

 

参考文献:鹿児島県/朝日日本歴史人物事典/ブリタニカ国際大百科事典

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