歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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やさしい名月八幡祭 その三 永代が落ちたぞ!

ただいま歌舞伎座で上演されている二月大歌舞伎

今月の夜の部「名月八幡祭」は松緑さんとニザ玉のご共演という

非常に思い出深い芝居となりそうですので、

この機会に少しばかりお話したいと思います。

芝居見物の何らかのお役に立てればうれしく思います。

 

「永代が落ちたぞ」

名月八幡祭(めいげつはちまんまつり)とはそもそも、

1918(大正7)年8月に東京は歌舞伎座にて初演された歌舞伎演目であります。

 

作者は池田大伍(いけだだいご)。当時の名優・二代目左團次のために、

江戸の風情溢れる芝居を数々執筆していた人物です。

初演の際にも二代目左團次が主役の縮屋新助を勤めていました。

 

お話の筋は大変わかりやすく

・ビッグイベント深川八幡の祭を控えた江戸深川の街が舞台。

・自由奔放な深川芸者の美代吉には、船頭の三次という情夫がいる。

・三次はほぼヒモの状態であるし、明日は祭で派手な衣装を作りたいしで、美代吉には金がない。

・そんな美代吉に惚れてしまった、越後からやってきた純朴な縮屋の新助さん。

・美代吉は100両の金の工面を新助さんに頼んでみるのだが…

というような流れであります。 

 

その二では江戸ッ子の誇り深川八幡祭についてお話いたしました。

芝居の最後、発狂してしまった新助さんが祭に乱入する場面でも、

八幡祭のために行き交う人々のようすが大変にぎにぎしく描かれていますね。

 

着飾った芸者衆、揃いの半纏を着た人々がわいわいと八幡様へ向かっていきます。

 

しかし、祭に浮かれ楽しげにしていた人々は、

ある一言をきっかけに、大変だ大変だ!!とにわかに慌てだします。

それは「永代が落ちたぞー!!!」というもの。

永代(えいたい)というのは今も隅田川にかかっている

永代橋(えいたいばし)」のことであります。

 

つまり、祭のためにあまりに人が殺到したために、

なんと永代橋が落橋してしまったというのです…!

多くの人が隅田川に投げ出され、建造物に押しつぶされてしまう大惨事です!

 

実はこの深川八幡祭の日の永代橋落橋事故というのは、

1807年(文化4)8月に実際に起こっています。

 

この年の大祭は実に12年ぶりのもので、

なおかつ前日の大雨で延期されていたために、

江戸ッ子たちの期待は否応なしに高まり、もう待ちきれない!!

というエネルギーで町は満ち満ちていました。

 

久しぶりの祭りということで、その日は将軍家の若様やお姫様たちも

船に乗ってどんぶらこと優雅に参拝に訪れていたのですが、

庶民の人々はその方々が通過するまで永代橋の通行を止められていたようです。

 

ただでさえ気の短い江戸ッ子たちが、

心底楽しみにしてきた祭の手前で足止めを食らっているさまを想像すると、

なんだかこちらも焦り、胸がざわざわしてまいります。

 

いざ「通ってよいぞ」とお触れが出ると、

まだかまだかと永代橋のほとりにとつめかけていた群衆が

我先に!!と一気に渡り始めたのです。

 

その群衆の重みたるやすさまじく…木製の永代橋は東側から崩れ落ち、

それを知らず渡ろうとする人々が隅田川につぎつぎ落下、

なんと1500人以上もの死者を出す大惨事となりました。

 

永代とかけたる橋は落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

という蜀山人の狂歌もあるように、

日本の歴史に残る最悪の落橋事故ともいわれています。

 

現在の永代橋はもちろん安心安全に渡ることができますが、

この隅田川沿いの下町エリアというのは本当に大勢の方々が、

それはもう数千人単位で亡くなられたという歴史がいくつもあります。

 

暮らしている身からしますと恐ろしいような気もしますが、

魅力的な怪談がたくさん生まれたのも納得です!

 

 

参考文献:江東区/東京で江戸の時代を見つける方法/江戸東京の寺社609を歩く下町・東郊編

江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編 (PHP新書)

江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編 (PHP新書)

 

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