ただいま歌舞伎座で上演中の
猿若祭二月大歌舞伎!
江戸歌舞伎三百九十年祭ということで、今月は江戸時代の町と歌舞伎について少しばかりお話しております。
江戸時代といっても歌舞伎の歴史をふりかえり始めるととても長いので、中でも身近な江戸時代の後半あたりのお話にとどめたいと思います。
本当に簡単なさわり程度ですので、お詳しい方は退屈かと思いますがお手柔らかにお願いいたします(人'v`*)
にぎわう江戸三座
歌舞伎への風当たりが強かった江戸時代、幕府が「興行を行ってもよい」と認めた芝居小屋が三つありました。
これを「江戸三座(えどさんざ)」と呼んでいます。
江戸三座はこの三つです…
一、堺町の中村座
座元は中村勘三郎
一、葺屋町の市村座
座元は市村羽左衛門
一、木挽町の森田座
座元は森田勘彌
座元というのは興行権をもっている人のことで、一切の責任を負う権威ある立場でありました。
この江戸三座にはそれぞれ補欠的役割の小屋なども用意されており複雑な事情があるのですが、ややこしくなりますのでそれについてはまた後日機会があればお話したいと思います(´▽`)
しかしそんな芝居小屋も天保の改革により、
\歌舞伎ってやっぱりあんまり良くない!/
と幕府から弾圧を受けてしまいましたヽ(´o`;
江戸・上方のビックスターたちはそれぞれ地方へと追放され、
芝居小屋もまた「悪所(あくしょ)」と呼ばれていた浅草へと強制的に移転させられることに。
ぽいぽいっと追いやられてしまったわけですが…
(※イメージ)
当時の浅草は市外地で、遊郭やらが立ち並び健全なイメージからはほど遠いいわゆる歓楽街でありました。
その土地に中村座・森田座・市村座の三座が移り、猿若町(さるわかまち)と名付けられます。
今月の興行も「猿若祭」と題されているように、この場所での芝居興行は幕末から近代への激動の時代の中で大きな繁栄を見せました。
文化的、また政治的側面からも重要な「猿若町時代」と呼ばれる一時代が、かつて浅草の街にはあったのですね。
今でもたいへんな賑わいを見せる浅草…お出かけの際は当時の様子を心に描きながら色々と思いを馳せてみてくださいね(人'v`*)