ただいま歌舞伎座で上演中の猿若祭二月大歌舞伎にちなみ、歌舞伎の大切なことばについてお話したいと思います。
猿若祭の思い出として、江戸時代の歌舞伎についてひとつ覚えていただけたらうれしく思います(人'v`*)
屋根の上にあるものは
この写真は江戸東京博物館にある、江戸時代の中村座・原寸大復元模型であります(o'∀')ノ
中村座は先日の、江戸歌舞伎発祥の地のお話にも出てきました。この模型がどの時期を模したものか定かでありませんが、歌舞伎興行のいかにも楽しげな雰囲気が伝わってくるようです。
そんな中村座の屋根の上をどうぞご覧ください。紋の入った布が張られた、四角い物体が乗っているのがおわかりいただけると思います。
この構造物を、櫓(やぐら)と呼びます!
当時はこの中で「櫓太鼓」と呼ばれる太鼓を打ち、その音によって
\興行があるよー!/
と人々に知らせていたようです。
しかし櫓はただ太鼓を打つための部屋ではなく、江戸時代の歌舞伎にとって非常に、非常にたいせつなものだったのです(´▽`)
オフィシャルの目印
江戸時代の人々が、一大エンターテイメントとして楽しみにしていた歌舞伎!
幕府はそんな歌舞伎をいかがわしくて風紀を乱しかねないものとして鋭く目を光らせ、厳しく取り締まっていました(¬_¬)
そんな歌舞伎の世界の中でも、君のとこなら興行させてあげてもいいよ、
と幕府に認めてもらえる芝居小屋がいくつかありました。
小屋に櫓を掲げることで、幕府から歌舞伎興行を許された芝居小屋であるというしるしとしていたのです。
こちらの写真は、近年浅草で開催された平成中村座の外観です。
紋の入った櫓がしっかりと掲げられていることがおわかりいただけると思います!
江戸時代中村勘三郎という名跡は、中村座の興行に関する全ての権利を持つ座元と呼ばれる立場でした。
この立場は世襲制で「櫓主」とも呼ばれる特権中の特権です。
そんな由緒ある名跡を受け継いだ勘三郎さん、そしてその思いを受け継ぐ中村屋の御兄弟が、
平成の街に中村座の櫓を掲げる「平成中村座」というプロジェクトに挑まれたこと…
芝居小屋の空間を通じて江戸時代と現代を繋ぐようで、観客としても非常に胸が熱くなりました(n´v`n)
実は…歌舞伎座にも櫓が上がっていることがあるんですよ(*´艸`)
ぜひ探してみてくださいね!