ただいま歌舞伎座で上演中の七月大歌舞伎!
昼の部「矢の根」について、少しばかりお話しております。
初めてご覧になった方のお役に立てればうれしく思います。
矢の根のルーツ
江戸時代のお話ですが、
江戸・神田の佐柄木町に住んで幕府の御用聞きをしていた
研物師の佐柄木弥太郎という人がいました。
この人のおうちでは、お正月吉例の行事として
「矢の根研ぎ」という儀式をしていたのだそうです。
大どてらに縄だすきという恰好で
炬燵櫓に腰かけて巨大な矢の根を研ぐ
というパフォーマンスを当主がして見せることが、
この儀式の恒例になっていたようです。
この豪快でど派手な所作からヒントを得て、
二代目團十郎が『矢の根』の趣向をひらめいた…
と伝えられていますが、これについては真相は不明であります。
しかし日本大百科全書によれば、
この二代目團十郎が初演した舞台が大評判を呼んで、
座元はその利益によって「矢の根蔵」という蔵を建てるほどであったのだそうです。
大薩摩主膳太夫は実在
「矢の根」の中で、
五郎に宝船の絵を渡す大薩摩主膳太夫という人物がいますが、
この人は江戸時代中期に活躍した実在の人物でありました!
ダイナミックな大薩摩節の祖で、薩摩文五郎を名乗った人物です。
最初は江戸の人形浄瑠璃の座で演奏していたようですが、
その後出演した二代目團十郎の芝居の出での語りが大好評を呼び
二代目團十郎の上演した「矢の根」では大薩摩主膳太夫を名乗って浄瑠璃を勤めたのだそうです。
この語り口が、二代目團十郎の荒事の芝居とそれはそれは見事にマッチしたようです。
豪快で勇壮な節と演奏法の「大薩摩節」は、ここから一世を風靡!
一大ブームを巻き起こしたのだそうです。
しかし、大薩摩主膳太夫が亡くなってしまったあと大薩摩節は次第に衰えてゆきました。。
そしてやがては「長唄」のジャンルに吸収されてしまったのだそうです。
大薩摩は長唄の一部だと思っていましたが、こんな歴史があったんですね。
大薩摩主膳太夫の裃姿にも納得がいきました!
次回拝見するときは大薩摩主膳太夫のようすにも注目して、
大薩摩節の歴史に思いを馳せてみたいと思います。