ただいま歌舞伎座で上演中の八月納涼歌舞伎にちなんで、
第二部「修禅寺物語」のお話をしてまいりました。
作者の岡本綺堂は歌舞伎の歴史の中でも重要な人物ですので、
少しばかりではありますがお話したいと思います(人'v`*)
やさしい修禅寺物語 その一
やさしい修禅寺物語 その二
やさしい修禅寺物語 その三
河竹黙阿弥以降の、芝居の第一人者
岡本綺堂(おかもときどう)は、
明治5年(1872年)東京・芝高輪生まれの劇作家・小説家・劇評家であります。
この方は裕福なお育ちであり、東京府立一中で学んでいる頃から劇作家を志していたそうです。
中学校を卒業すると東京日日新聞社に入社して、劇作をしながら劇評など担当。最終的には40代のはじめまで記者として働いていたようです。
初めて上演されたお芝居は明治35年(1902年)のお正月。
岡鬼太郎と合作した『黄金鯱噂高浪(きんのしゃちほこうわさのたかなみ)』でありました。
そして6年後の、明治41年(1908年)
オッペケペー節で有名な川上音二郎が行っていた革新興行で、岡本綺堂にとっての運命のパートナーに出会います。
それは当時、歌舞伎役者としてはこれといった特徴を見いだせずにいたという二代目市川左團次です。
この興行で岡本綺堂は二代目左團次のために『維新前後』というお芝居を書いたのでした。
相性の良かった二人は、歌舞伎の舞台へ。
3年後の明治44年(1911年)明治座で『修禅寺物語』を発表します。
この芝居が大評判を呼び、二人は人気をつかんで大成功するのでしたヽ(。>▽<。)ノ
『修禅寺物語』を出世作として岡本綺堂は、新歌舞伎の作者として一時代を築きます。
二代目左團次のために『佐々木高綱』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』などなどたくさんの作品を執筆したほか、
第一次世界大戦を経た欧米の演劇を視察する、演劇雑誌『舞台』を創刊する、などなど日本の演劇に多大なる影響を与えました。
初期作品は史劇や芸術至上主義思想を取り入れた堅い内容のものでしたが、
のちには世話物や喜劇などバリエーションに飛んだ作品も創作し、
執筆した戯曲はなんと全部で196編にも及びます! Σ('0'o)
岡本綺堂が『修禅寺物語』を書いていなければ今ごろ、
日本の演劇世界はどうなっていたのかなぁ…と思いを巡らせると
歌舞伎のみならず全ての舞台芸術に影響を及ぼしたその偉大さに感激してしまいます(n´v`n)