ただいま歌舞伎座にて上演中の
團菊祭五月大歌舞伎
新元号令和最初の記念すべき歌舞伎公演です!
昼の部「神明恵和合取組」は粋な江戸っ子たちが大暴れする
たまらなくカッコいい演目ですので、この機会に少しばかりお話してみます。
芝居見物のお役に立てればうれしく思います!
実録・め組の喧嘩!
神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)は、
1890年(明治23)3月に東京は桐座にて初演された演目。
幕末に活躍した偉大なる歌舞伎作者・河竹黙阿弥の弟子
竹柴其水(たけしばきすい)の作品であります。
芳虎 江戸の花子供遊びより二番組め組
国立国会図書館デジタルコレクション
「め組の喧嘩」という通称で知られ、火事と喧嘩は江戸の華という言葉のとおり
粋でいなせな江戸ッ子たちの美学がビシバシと感じられる熱い演目です。
本当にざっくりとした流れをお話いたしますと、
一、品川の遊郭で鳶頭の辰五郎が四ツ車という相撲取りたちともめ、辰五郎は恥をかかされる。
ニ、数日後、芝居小屋で鳶VS相撲取りのバトルが再燃。一触即発の状態になるも、太夫元の顔を立てて場を収める。
三、しかし気持ちの収まらない辰五郎は、女房子供に別れを告げて相撲取りへの仕返しに向かう!
四、鳶と相撲取りの大乱闘!
…というものです。
芝居の展開のおもしろさを味わうというよりも、
血の気の多い江戸ッ子たちがカッカカッカしているようすや
スカッとしてかっこよい江戸の風俗を見るのが楽しい演目であります。
実はこの「め組の喧嘩」
江戸の町で実際に起こった出来事だったのだそうですよ!
め組と相撲取りの間で喧嘩が起こり、乱闘騒ぎで多くの逮捕者が出て、
一説によれば亡くなった方もいたらしい…という一大事であります。
いくらいきのいいめ組の男たちとはいえ、
規格外のおすもうさんたちに喧嘩を売るとはなかなかの命知らず。
一体どういった事件であったのか少しばかり調べてみました。
が、講談になったり芝居になったりするうちに
いろいろと話がふくらんでしまったのか、諸説ありすぎる状況です。
複数のソースに書かれている内容を優先してお話してみます。
時は化政文化の栄えた1805年(文化2年)の2月ごろ…
江戸芝神明の境内にて、にぎにぎしく勧進相撲が催され、
鳶頭の辰五郎がめ組の男たちや妹を連れて見物に出かけたそうであります。
この勧進相撲というイベントは火消であればタダ見できるものだったのですが、
メンバーに火消でない者も混ざっていたために、
力士と火消たちの間で木戸銭を払え、まあいいじゃないか、払え、などと
小競り合いになってしまいました。
まあ仕方がないかとここでは火消たちが引き下がり、
相撲見物はをあきらめて事なきを得たものの、
なんでぇなんでぇと納得のいかない火消の富士松の心に
喧嘩の火種が生まれてしまったのです。
ここから富士松は相撲取りの九頭竜浪右衛門に喧嘩を売り、
喧嘩を売られた九頭竜を相撲取りの四ツ車大八ら力士がけしかけ、
鳶頭の辰五郎も加わっての大げんかに発展しました。
わーこりゃ大変だと驚いた火消の一人が
火事を知らせる半鐘を鳴らしてしまったために、
町火消たちがワーッと大集結して大変な大乱闘に!
武器で殴るわ刀を抜くわの危険な状況に陥ってしまいました!
南町奉行の同心たちまでが出動してようやく事態が収まり、
鳶頭の辰五郎と力士の四ツ車大八は江戸を騒がせた科で江戸を追放となったものの、
お奉行さまの粋な計らいで多くの者が比較的軽めの罪で済んだそうであります。
「櫓のお七」でも知られる通り
火事でもないのに半鐘を鳴らすというのは本来大変な罪なのですが、
死罪などにはならずに済んだ模様です。
しかしながらなんと最初に喧嘩の火種を作った富士松は
この時の怪我がもとで亡くなってしまったとのこと…
短気は損気というのは本当だなあと思わされます。
余談ですが鳶頭の辰五郎はこの時わずか22歳、
小柄なために「豆辰」と呼ばれていたそうです。
芝居の渋い辰五郎とは少しイメージが異なるように思われますが、
きっと男らしくカッコいい方だったのでしょうね!
参考文献:新版歌舞伎辞典/東京都/日本大百科事典/精選版 日本国語大辞典/朝日日本歴史人物事典/歌舞伎登場人物事典