歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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涎くりと「寺子屋」のシステム その②

数ある歌舞伎演目の中でも屈指の名作として知られる「寺子屋

三大狂言のうちの一つに数えられる菅原伝授手習鑑の一場面です。

 

主人公は、菅丞相(菅原道真)から大恩を受けた三つ子の一人でありながら、

菅丞相の敵方・藤原時平に仕える薄情な男だと思われていた松王丸。

そんな松王丸が、菅丞相の一子・菅秀才の命に危険があると知り、

菅丞相の恩に報いるため大切な我が子を身代わりにする…という悲劇であります。

 

高い費用を払ってでも必要な「読み書き」

題名の通り、芝居の舞台は江戸時代の教育機関である寺子屋。

寺子屋といえば現代でも塾の名前などに使われるお馴染みの存在ですけれども、

カリキュラムや月謝などの詳しいことは知らないなあ…と思い、

個人的な興味で調べております。

www.suehiroya-suehiro.com

 

その①では寺子屋で最も重視されていたのは「書くこと=手習」であったらしいとお話いたしましたが、

では寺子たちはどのようにして「書くこと」を習得していたのでしょうか。

 

寺子屋の手習いは、まず師匠が書いた手本を見ながら

いろは文字や数字の書き方を学ぶことから始まりました。

確かに芝居の「寺子屋」でも、涎くりたちが「いろはにほへと」と唱えていましたね。

そこから続いて十二支や方角、地名などへと進んでいき、

往来物と呼ばれる教科書を用いて学びを深めていったそうであります。

 

往来物では主に手紙文などをもとにして日常用語を学びましたが、

地理に関するものや「商売往来」「百姓往来」などの職業別のものもありました。

師匠たちは寺子たちの親の職業や本人の希望に合わせて、

それぞれのカリキュラムを柔軟に考えて与えていたようです。

源蔵も教育者として寺子たち一人一人の状況をしっかりと見ていたからこそ、

あのように苦悩していたのですね。

 

次に気になるのは学費であります。

子どもを寺子屋に通わせるときには入門料「束脩」授業料「謝儀」が必要で、

盆暮れや25日の天神講には挨拶のための金銭や品物を師匠に届けていました。

しかしその金額には定めがあるわけではなく、

地方の農村にある寺子屋であれば、その土地の庶民も通わせることができる額であり、

場合によっては物品や食品で納めることも可能であったようです。

 

負担であったのはむしろ文房具代の方でありました。

書くことを重視する寺子屋では、や字の練習をする草紙が大量に必要でした。

今でいう鉛筆とノートですが、特にノートの消費量が尋常でなかったようです。

下記参考文献の論文によれば、寺子たちはお手本を見ながら草紙が真っ黒になるまで何度も練習し、

なんと一人の寺子が一カ月で平均122帖もの草紙を消費する塾もあったそうであります。

菅秀才のいう「一日に一字学べば360字の教え」の教訓のとおり、

寺子たちがいかに熱心に学習に打ち込んでいたかが分かります。

涎くりも坊主頭の清書きをしている場合ではありませんね。

 

当時は貴重かつ高価であった紙をこれほど消費するということは、

庶民の親たちにとっては相当痛い出費であったと思われます。

農村の子どもであれば、そのような高い費用を払って読み書きを学ばせるよりは、

早くから畑に入って農業を学んでもらい手に職を付けた方が、

労働力にもなり生産効率も上がるのではないか…とも思われますが、

当時の親たちはあえてそうしませんでした。

なぜなら、農村では「農書」と呼ばれる農業書を読みといたり、

村を運営するための書類作成をしたりといった事務作業も意外と多くあり、

読み書きの能力は必須であったからであります。

 

寺子屋は安くて誰でも通うことができたので普及した、というよりは、

決して安いわけではないが、子の将来や仕事のための投資として通わせる考え方が定着していた…

というニュアンスの方が正確なようであります。

まずは子供の教育に投資をすべきという考え方は非常に先進的であり、

現代人の私たちも見習いたいところです。

 

つまり、涎くり与太郎が15歳になってもまだ寺子屋に通っているのは、

・師匠である源蔵が、涎くりにはまだ必要な手習いがあると考えカリキュラムを用意している

・いずれ農業に従事する者への投資としては有効であると、親が判断している

ということであろうと思われます。

 

師匠の思いと親心を受けて、のびのびと学んでいる涎くり。

人に愛され面倒見もよい彼のことですから、

きっと長期間にわたる学びを無駄にすることなく良い仕事をして、

ととさんを喜ばすことであろう…と想像し、ほっこりしてしまいました。

 

参考文献:文部科学省/ブリタニカ国際大百科事典 

江戸時代の教育制度と社会変動 井出草平

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