先日、歌舞伎座へ出かけまして二月大歌舞伎の昼の部を拝見してまいりました!
今回の二月大歌舞伎は十三代片岡仁左衛門二十七回忌追善狂言として、ゆかりの演目が並んでおります。
なかでも菅原伝授手習鑑の菅丞相は「神品」と評された伝説のお役であります。
今回は当代の仁左衛門さんが、2015年の通し狂言上演以来のお勤めです。
あまりにも感動してしまいまだ思いがまとまっておりませんが、
現時点での備忘録として少しばかり感想をしたためたいと思います。
宗教画のような神々しさ
昼の部 菅原伝授手習鑑 今回の上演は加茂堤・筆法伝授・道明寺の場面です。
内容を本当に簡単に申しますと、
舎人の桜丸夫婦が菅丞相の娘・苅屋姫の恋の手引きをしたことが発端となり
菅原道真(菅丞相)が太宰府へ流罪となってしまうというもの。
後に学問の神・天神様として信仰される菅原道真の受難を描き出した壮大な場面です。
前回2015年の上演の際にも拝見しておりますが、
配役、お勤めになる方などなどさまざまな要因で見え方が変わったのか、
はたまた自分自身の視点が変わったのか、舞台の上から感じ取れるものがより豊かになりました。
私事ですが小学校から高校卒業までカトリック教育の学校に通っておりまして、
そこではキリストの受難というものが必須の手習となっていました。
絵を見たり歌を歌ったり、宿題で絵を描いたり穴埋めテストをしたりして、
12年間相当の刷り込みを受けながら育つわけであります(特に信仰心はありません)。
キリストの受難をごく簡単に申しますと、
①神の子として聖母マリアから生まれたキリストが、
②弟子の裏切りなどを受けて死刑になり、
③十字架を背にゴルゴタの丘をのぼり磔の刑に処され、
④そして復活する…
というものです。映画「パッション」や宗教画などでも広く知られているかと思います。
そういった生涯を歌やお話を通じて振り返りながら、
新学期や学期末などの学校行事としてミサと呼ばれる儀式をしていたのでした。
特に信仰心はない私ですが、ミサの日にはそれなりに厳かな気持ちにもなり、
神聖なる人が罪人と呼ばれてひとり十字架を背負って歩く悲しみや痛みなどを想像し、
手を合わさずにはいられないような思いがしたものです。
このあたりで芝居の話に戻りますが、
「筆法伝授」の場面の終わり、バシンバシンと叩いて打ち鳴らされる割竹の音のなか、
音も立てず厳かに花道を歩く仁左衛門さんの菅丞相を拝見しまして、
なんだかそのミサの日に想像していた悲しみや痛みがハッと思い出されたのです。
いつもお芝居を拝見しているはずの仁左衛門さんのお姿に見えないと申しますか、
別の存在になってしまわれたかのような不思議な感覚を得ました…
菅丞相が舞台に表れた瞬間に劇場中がピーンと張りつめるような空気、
それとは反対に、お姿が見えなくなった途端にフッと緩む空気…
こんなことってあるのだろうかと驚き入った次第であります。
と、なにやらいろいろわけのわからぬ例えを用いてしまい
まわりくどい文章になってしまったのですが、とにかくあまりの神々しさに、
拝見しているこちらの身が引き締まるような体験でありました。
楽しく愉快な芝居見物という次元を超越していて、もはや参拝という感覚です…
迷っておいでの方がいらしたらもう是非にとおすすめしたく思います…!!