歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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煉獄さんの時代の歌舞伎 その一 團菊左時代の終焉、不穏な時代へ

全国各地で新規感染者数が増加の一途をたどり、第三波といえる状況にあるようですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

このすえひろはといえば、先日再び「鬼滅の刃無限列車編」を拝見してまいりました!すでに3度目でしたがぐいぐいと引き込まれ、もう4度目が見たくなってウズウズしております。

このような状況にあって興行収入歴代1位に迫る勢いの作品が生まれるというのは、ものすごいことであるなとつくづく思います。娯楽産業の底力を感じて元気が湧いてきます。娯楽はさまざまな意味で命を救うものだと再認識した次第です。

 

それはさておき、先日、「煉獄さんは歌舞伎好き」という情報を小耳に挟んでしまいました。ご存じない方に向けてざっくりと申せば、煉獄さんというのは主人公の先輩で、強く優しくあたたかな魅力にあふれた方であります。鬼殺隊の最高位に位置する立場の方で、映画「鬼滅の刃 無限列車編」に登場する非常に重要な人物です。

「歌舞伎好き」の出典はどこにあるのか原典を探すと、公式ファンブックであるとのことで急ぎ入手、煉獄さんの趣味の欄に「能 歌舞伎 相撲観戦」との記載を確認した次第です。これが書店では軒並み売り切れていて、見つけるまでが大変でした…。

 

物語の舞台が大正時代であることを考えますと、煉獄さんは歌舞伎が俗な娯楽から高尚な芸術へと変化していき歌舞伎の近代史がめりめりと動く最中の歌舞伎を楽しんでいた可能性が高いです。それは江戸とも現代とも違った、独特な世界であったのではと想像します。「歌舞伎好き」という設定の妙を感じます。

具体的にはどんな場所でどのようなものを見ていたのだろうかということが気になってしまい、いろいろと家の資料をかきまわしてみました。物語の内容とは全くもって無関係なダラダラとした個人的趣味で恐縮ですが、まとめてみたいと思います。

明治30年代後半の劇界

まずは具体的な年を突き止めたいところですが、作品についてはさまざまな考察がありますので、数年の誤差を含めて想定しようと思います。何かを特定するつもりは毛頭ありませんのでご容赦ください。

先日話題を呼んでいた森田正光さんの考察記事と、その参考として掲載されている記事を参考にして、映画時点で大正5年(1916)をここでのひとつの基準としましょう。

(下記記事はネタバレとなる内容を含みますのでご注意ください)

news.yahoo.co.jp

(上記記事の参考記事。物語の始まりを1912年年末あたりと推定)

kimetsu-i.com

 

公式ファンブックによれば煉獄杏寿郎さんの生年月日は5月10日、映画時点での年齢は20歳とのこと。ここでは単純に1916年から20を引き、生年を明治29年(1896)と仮定します。あくまでも仮定です。

 

原作や映画に登場したおうちのようすなどから想像するに、おそらくある程度の年齢になってからご自身で芝居通いをするようになったというよりは、幼いころからご家族に連れられて劇場文化に親しまれてきたのではないかと思います。鬼殺隊に入ってからはどれほど趣味に時間を費やすことができるのか不明ということもあり、幼少期~少年期に絞りたいところです。

ということで、劇場で静かにでき、記憶もある程度残るであろう7歳前後を一つの基準とし、明治36年(1903年)前後の劇界を探ります。明治は45年(1912)までですから、ざっくりといえば明治後期です。

 

この年代はちょうど岡本綺堂の「明治劇談 ランプの下にて」にも下記のように記されている、非常に重要な区切りです。

明治三十六年は明治の劇界に取って最も記憶すべき年であらねばならない。

明治二十年の井上外務大臣邸における演劇天覧と、三十六年における団菊両優の死と、この二つの事件は明治の演劇史に特筆せらるべき重要の記録である。(「晩年の菊五郎」より) 

 

「団菊」といえば明治時代を代表する名優・九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎のことであります。7歳前にご覧になっていたとすると、煉獄さんの記憶に残っているかどうかギリギリですね…。明治を代表する名優と言えばもうひとり初代市川左團次がいますが、この方も1904年に亡くなられているので記憶が残っていてもおぼろかもしれません。記憶に残っていたとしてもいずれの方も晩年は衰えが見られたようですから、全盛期をご覧にならなかったのは確かであろうと思います。 

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歌舞伎十八番之内勧進帳 豊春楼国周 明治23年

国立国会図書館デジタルコレクション

 

当時の劇場通いのようすも、綺堂の記述から伺えます。

その頃はまだ電車はなかったので、わたしは銀座から半蔵門まで十銭に値切った人力車に乗って帰ったのであるが、日比谷の公園もまだその工事が完成しない時分で、広い野原の上には初冬の暗い宵の空に弱々しい星のひかりが幾つか寂しく洩れていた。幌ほろをかけていない車の上は寒いので、わたしは両袖をかきあわせながら俯向うつむきがちにゆられて行った。(「晩年の菊五郎」より)

電車がなかったということですから、世田谷桜新町出身という煉獄さんはそれなりの長距離を、人力車か馬車などの乗り物を使って劇場街まで出かけていたのかもしれませんね。結構遠いと思われます。

もしかしたら世田谷方面から中央区方面は電車や列車のようなものがあって、各拠点から人力車などの乗り物に乗ったのでしょうか。ちょっと勉強不足でわかりませんが…

 

さらに綺堂はこうも書いています。

こうして、明治三十六年は暮れた。歌舞伎劇は影薄く、新派劇ひとり驕って、わが劇界の覇権は前から後へ移り変わるかと見られた時に、あくる三十七年の二月には、かの日露戦争の幕が開かれた。

その当時わたしは思った。これは歌舞伎劇一派に取っていよいよ大洪水の日が来たのである。先度の日清戦争において、歌舞伎派はみごとに新派に打破られて、かれらをして今日の地盤を築かしめたのである。それから十年目で、再びおなじ時節が来た。

団菊健在ですらもあの始末であったのに、今や団菊逝き、左団次おとろえ、いわゆる孤城落日ともいうべき体たらくの折柄に、再びこの戦争を繰返されては堪まったものでない。歌舞伎は呪われ、新派は恵まれ、両者の運命はおのずから定まったのではあるまいかと――。

(「日露戦争前後」より)

どうしたどうしたと言いたくなるほどネガティブなムードが漂っています。

この時代を乗り切り、疫病で世界が混沌のなかにある2020年の今もなお歌舞伎興行が行われているということを綺堂に知らせたらどう思うでしょうか。煉獄さんもまたこういった時代にもなお歌舞伎を愛していた、そんな方であったわけですね。熱いです…!興奮してきました。

どのような演目が上演されていたのかについては回を分けてまとめたいと思います。

 

参考文献:新版歌舞伎事典/明治劇談ランプの下にて 岡本綺堂/明治演劇史 渡辺保/歌舞伎 研究と批評64/歌舞伎の近代化 中村哲郎/変貌する時代のなかの歌舞伎 日置貴之/芝居絵に見る 江戸・明治の歌舞伎 早稲田大学演劇博物館編

明治劇談 ランプの下にて

明治劇談 ランプの下にて

  • 作者:岡本 綺堂
  • 発売日: 2012/10/05
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ランプの下にて 明治劇談 (国立図書館コレクション)

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