歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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煉獄さんの時代の歌舞伎 その二 新歌舞伎の登場

全国各地で新規感染者数が増加の一途をたどり、第三波といえる状況にあるようですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

このすえひろはといえば、「鬼滅の刃」登場するキャラクターの煉獄杏寿郎さんが歌舞伎好きであるとの情報を得て心躍り、明治後期~大正初期の劇界に思いを馳せております。

その一では歌舞伎を見始めた時期を明治36年(1896)前後と仮定し、岡本綺堂の「明治劇談 ランプの下にて」などを参考に、明治の名優として語り継がれている「團菊左」は煉獄さんの記憶にはギリギリ残っていないのではないか…という個人的考えをつらつら述べました。

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当時は演目の内容にも大きな変化があった時代です。鬼滅の刃の内容とは全くもって無関係なダラダラとした個人的趣味で恐縮ですが、まとめてみたいと思います。

新歌舞伎の登場

岡本綺堂の「明治劇談 ランプの下にて」にも

明治三十六年は明治の劇界に取って最も記憶すべき年であらねばならない。

明治二十年の井上外務大臣邸における演劇天覧と、三十六年における団菊両優の死と、この二つの事件は明治の演劇史に特筆せらるべき重要の記録である。(「晩年の菊五郎」より)

とあるように、明治30年代後半には團菊左の死という大事件がありました。

 

明治初め~20年代にかけ歌舞伎は急激に近代化・高尚化を推し進めましたが、地位向上は果たしたものの一般観客には受け入れられませんでした。さらに明治20年代に起こった当時の現代演劇「新派」の台頭を受け、明治37年には日露戦争が始まり、歌舞伎は綺堂曰く「孤城落日」の状況に陥ります。

河竹黙阿弥の死によって現代劇としての世話物ももはや生まれなくなり、生活が急激に変革し西洋の価値観に触れながら生きる一般観客の歌舞伎への違和感が増していったのはやむを得ないことであったかと思います。「まだ『ござる』とか言ってるよ」というような具合でしょうか。

 

それでも歌舞伎には底知れぬ魅力があるようで、黙阿弥亡きあと近代の思想に感化された作家たちが動きだします。江戸歌舞伎の演出を大切にしたうえで、そこに西欧演劇の思想を加えたり深い人間描写を行うなどといった工夫をし始めたのです。

こうした動きから生まれた演目は明治40年(1907)年前後から上演されはじめ、「新歌舞伎」という一ジャンルを築き今に伝わっています。代表的なものに坪内逍遥の「桐一葉」や岡本綺堂の「修禅寺物語」などがあります。

煉獄さんの生年を明治36年(1896)前後とすると11歳ごろですから、成長著しい少年期の心に影響しうる作品群かと思います。

 

新歌舞伎の人間描写がどういったものか「修善寺物語」のあらすじを例に挙げたいと思います。

修善寺に住む面作り師の夜叉王が、将軍源頼家の命令で面を製作。仕上がった作品には死相が出てしまったが、その面を付けた頼家が自分の娘と非業の死を遂げたため、運命を予見するほどの面を作った自分の技に満足。さらには死にゆく自分の娘の顔を写生する…というもの。

シンプルな勧善懲悪ではない複雑な心理描写がなされている演目です。大好きな歌舞伎を「孤城落日」と書くほどにネガティブムード満載であった綺堂が書いたものであると思うと、なんだか胸が熱くなります。

 

新歌舞伎は大正時代にピークを迎え、昭和初期まで続々と作品が生まれました。新歌舞伎については中村哲郎「歌舞伎の近代」にもこのように書かれています。

現代劇路線から退却して十数年、歌舞伎は屈折した道を歩んだ末に、構築された歴史的世界の虚実を通して、現代的リアリティを投影するという方途を、やっと見出した。

――中略ーーー

新歌舞伎は近松門左衛門の時代以来、じつに久々に返り咲いた歌舞伎の回春だったと言える。

歌舞伎が滅びることなく今も上演されているのは、近代においてこういった変化を起こそうと動いた人々がいて、歌舞伎の側でもそれを受け入れ、観客もまたそれを楽しんだからであり、時代と演劇そのものがなにか計り知れない大きな生き物のように感じられ、大切なたからものに思えます。

 

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風船乗評判高楼 長谷川園吉 明治24

国立国会図書館デジタルコレクション

余談ですが、これは煉獄さんが生まれる前と思われる明治24年2月に歌舞伎座で初演された演目「風船乗評判高楼(ふうせんのり ひょうばんのたかどの)」の錦絵です。

あまりに摩訶不思議すぎてツッコみたくなってしまう好きな絵です。序盤で炭治郎が鬼舞辻無惨と遭遇した浅草の風景の中にも描かれている凌雲閣、通称浅草十二階が描かれていますね。

「風船乗評判高楼」は、当時日本で風船乗りの興行を行っていたイギリス人曲芸師スペンサーの実演を見て驚いた五代目菊五郎が、河竹黙阿弥に依頼し、舞台でそのようすを再現して見せたという演目。明治23年に完成し世間を賑わせていた凌雲閣とスペンサーの風船乗りとを組み合わせ、観客に最新トレンドを届けていたようです。

内容的にはおもしろいのかなというところですが、現在残っていないところをみますと普遍性はあまりなかったのかなあと思われます。

 

また、調べているうち、もしかしたら煉獄さんは明治44年(1911)3月に開場した帝国劇場に出かけたことがあるのではないかと思われました。

帝国劇場は渋沢栄一による石造り5階建て全席イス席の華々しい近代劇場であり、開場は大きなイベント性を持っていたはずです。煉獄さんの生年を明治36年(1896)前後とするとちょうど14~15歳ごろであり記憶も鮮明に残っているのではないでしょうか。

帝劇の開場は梅幸、高麗蔵、宗十郎と大阪のスター鴈治郎を揃えて華々しく行われ、さらにその翌月の4月には歌舞伎座が段四郎による「勧進帳」を上演して大入りをとったそうで、さぞや芝居好きや上流階級の方々の間では盛り上がったことと思われます。

 

自分自身この時代の歌舞伎については最も興味深く感じており、ちょっとどんどんおもしろくなってきてしまったので、また折を見てお話したいと思います。

参考文献:新版歌舞伎事典/明治劇談ランプの下にて 岡本綺堂/明治演劇史 渡辺保/歌舞伎 研究と批評64/歌舞伎の近代化 中村哲郎/変貌する時代のなかの歌舞伎 日置貴之/芝居絵に見る 江戸・明治の歌舞伎 早稲田大学演劇博物館編/慶応義塾大学出版会 時事新報史

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