ただいま南座で上演中の
京の年中行事 當る丑歳
吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎
第二部で上演される「熊谷陣屋」は歌舞伎屈指の名作で、今回は仁左衛門さんが主役の熊賀次郎直実をお勤めとあって大変話題を呼んでいます。
過去のお話をいくつかピックアップしてみましたが、肝心の内容についてお話したりないのでざっくりとですがあらすじをお話したいと思います。お勤めになる方や上演時の条件によって前後したりカットされたりするものですので、その点は何卒ご容赦いただきたく存じます。
義経の首実検
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)は、1751年(宝暦元年)12月に大坂は豊竹座にて人形浄瑠璃として初演され、翌年の5月に江戸の中村座・森田座にて歌舞伎化された演目です。なかでも熊谷陣屋の段が名作として知られ、熊谷陣屋(くまがいじんや)として上演されています。
源平合戦の世、主君・義経から「一枝を伐らば一指を切るべし」というメッセージを託された熊谷次郎直実は、これを「後白河法皇の子である敦盛を守るため己の一子を斬るべし」と解釈。忠義のため大切な我が子を手にかけるという戦の世の悲劇であります。
重厚感に溢れ現代的価値観とも異なるため、初めてご覧になっても内容がつぶさにわかり共感できるというものではないかと思いますが、役者さんの芸の力によって理屈抜きに魂が揺さぶられてしまうような演目です。
源九郎義経・熊谷次郎直実 俳優似顔東錦絵 一勇斎国芳
国立国会図書館デジタルコレクション
②では熊谷夫婦と藤の方の縁、敦盛の出生の秘密についてお話いたしました。
熊谷から敦盛の立派な最期のようすを聞いて悲しみに暮れる藤の方が、形見の青葉の笛を奏でてみますと、なぜか傍らの障子に敦盛らしき影が映ったのですけれども、開いてみればそこには鎧があるばかりであった…という悲しい場面までお話いたしました。
藤の方と相模は立場こそ違えど、16歳の若さで戦場に向った息子をもつお母さん二人であるわけです。戦場に行けば命はないものと思わねばならないと熊谷は言いますが、小次郎が心配で東国からはるばるやってきた相模ですから、子を討たれた藤の方の心中が痛いほどわかるはずであります。
時は移りまして、着替えを終え首桶を携えた熊谷が再び現れ、首実検のために義経のもとへ向かう運びとなります。これは討ち取った敵の首を大将にチェックしてもらうという戦場の作法の一つで、その首が本物かどうかを確かめるという意味もありました。
支度の整った熊谷がさあ向かおう…というところへ、なぜか主君である義経の方が、家臣たちを連れて熊谷の陣屋に現れました。
実はこの時すでに首実検の予定がかなり伸びていたうえ、熊谷は戦の最中であるというのに暇乞いをしてきており、義経は主君として熊谷の動きをなにやら不審に感じていたからなのです。これまでの話は奥ですべて聞いていたし、もうこの場で敦盛の首を実検するからな、というのであります。
とはいっても歌舞伎の演目に登場する義経というのは、史実はさておき優美で情緒のある主君として描かれており、兄に疎まれ都を追われ奥州で儚く命を落としたという大きな悲しみを背負った人物であるというのがすべての前提になっているので、部下を疑う鬼上司という感じでは全くありません。それよりはむしろ、何かあるのだろうなと予感させるような作用があります。
さて、そんな義経の言葉を聞いた熊谷は、なぜか陣屋の傍らへと向かいます。
そして花を咲かせる桜の木のもとに刺してある制札を引き抜いて、義経の前に差し置きました。これは義経の命、武蔵坊弁慶筆で「一枝を伐らば 一指を剪るべし」と書かれていたものです。
「この札のごとく、敦盛の首を討ち取りました」と言って首桶の蓋を外す熊谷。
その手元を見ていた相模は、我が目を疑うような光景に愕然とします…
なぜなら、首桶の中にあったのは敦盛の首ではなく、我が子小次郎の首であったからです。
あまりのことに動転した相模と、藤の方が、いまにも叫び出してしまいそうなところ、熊谷は桜の制札を手にこれをぐぐっと諫めます。「制札の見得」といわれる名場面です。
どう見ても異常な状況にあり、あれは敦盛の首ではないはずだと観客にもわかるのですが、首桶の首を見た義経はなぜか「これは敦盛の首に違いない」と断言します。
これはどういったことなのだろうかというところで次回に続きます!
参考書籍:新版歌舞伎事典/国立劇場 文楽床本集 第一九六回文楽公演 平成二十八年九月/歌舞伎手帖 渡辺保/もう少し浄瑠璃を読もう 橋本治