オリンピック開会式で海老蔵さんが披露された「暫(しばらく)」が話題を呼んでいますね。これを機に歌舞伎に興味を持たれた方も大勢おいでなのではと思いますので、ごく簡単にですがご紹介いたします。
いつか劇場で上演の際などにお役に立てれば嬉しく思います!
悪をこらしめる超人的ヒーロー
暫(しばらく)は、代々の「市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)」が得意とした芸を集め「成田屋(なりたや)」の家の芸として制定されている「歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん)」のうちのひとつです。
市川團十郎は「荒事(あらごと)」という芸の創始であり、代々の市川團十郎がこれを得意としました。荒事は超人的な力を持ったヒーローが、勇猛な姿を見せつけるというもので、「隈取(くまどり)」やド派手な衣装、独特の動きなどでそのパワーを様式的に表現します。
河原崎権十郎(九代目團十郎)ロサンゼルスカウンティ美術館
江戸時代の人々は、江戸歌舞伎の代表的存在であった團十郎と不動明王を結びつけて信仰していました。團十郎ににらまれれるとあらゆる病気が治るという話もあったほどです。そんな團十郎の超人的ヒーロー像である荒事を見て大いに喜び、縁起の良い底抜けなムード、景気の良さ、祝祭の気分を味わって楽しんでいたわけです。
なかでも「暫」は、荒事の代表的なものといえる演目で、江戸時代の歌舞伎界において最も重要な興行「顔見世(かおみせ)」で上演するのを習慣とし、一座の御目見えとして喜ばれていました。
内容としては、
①「しばらく、しばらく」と言いながら登場した主人公が、
②尋常ならざる怪力で悪者たちをやっつけ、
③善良なる人々を助けてめでたしめでたし
というものです。右手を張り出した決めポーズ「元禄見得(げんろくみえ)」が見どころです。
たわいもない内容のように思われるかもしれませんが、社会のあらゆる締め付けに苦しんでいた江戸時代の人々にとっては、これが痛快そのものであったのだと想像します。おそらく現代人にとってもそうではないでしょうか。
現行の上演では主人公は「鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)」と設定されています。鎌倉権五郎は平安時代後期の武将です。目を射抜かれながらも勝利し、味方の武士が顔に足をかけて矢を抜こうとすると大激怒して跪かせたという誇り高き武士としての伝説や怪力伝説などが残っています。
衣装や髪型がとても特徴的ですので、浮世絵をもとにご紹介いたします。
六代目市川團十郎 暫 ロサンゼルスカウンティ美術館
市川鰕蔵(五代目團十郎) シカゴ美術館
市川家の定紋「三升(みます)」が巨大に染め抜かれた柿色の大紋(大素襖とも)を着て、紫と白の布をよった注連縄のような「仁王襷(におうだすき)」を締め、隈取は「筋隈(すじぐま)」、髪型は「角前髪(すみまえがみ)」、そして大太刀を持つのが基本の拵えです。ちなみに開会式放送時にインターネットで「座布団」と言われていたのは素襖のお袖のことかと思います。
昔の人々にとってこれくらい派手なものが当たり前であったのではなくて、常識を度外視してヒーローぶりを誇張しつくした結果がこれという仕上がりです。團十郎の芸にとにかく華々しいもの、規格外の存在感が求められていたということがよくわかります。
明治時代に九代目團十郎が暫を演じた際には、子連れの観客たちが毎日楽屋にやってきて、扮装のまま子供を跨いでほしいと願ったそうです。理由は「魔除けになるから」とのこと。 江戸時代を過ぎ近代に至っても、人々からなんらかのパワーを期待されていたことが伺えます。
また、成田屋の方のみが許されてきた演目とお考えの方もおいでかもしれませんが、そういうわけでもなく、他の家の方や女形による「女暫」なども江戸時代から披露されています。ただ、江戸における演劇界の慣習や人々の感覚、團十郎の名跡の代々をふまえますと、長らく成田屋の暫が特別視されてきたと言える、というお話です。
こちらは、暫のセリフ「しばらくのつらね」をもじった「しばらくのそとね」という絵です。安政の大地震の被害で家屋が倒壊し、しばらくは野宿を強いられるという状況を伝えています。
震災の被害で興行も中止となってしまったものの、團十郎の暫が要石で鯰坊主を鎮めてくれたのでもう大丈夫、というメッセージです。團十郎家による暫がおまじない的な役割を担っていたことが伺える一枚です。
しばらくのそとね 国立国会図書館
余談ですが、江戸時代にはこんな楽屋のオフショットも浮世絵として販売されていたようですよ。暫の出番前のようすでしょうか。いつの時代もファンが求めていることは同じなのだなあとおもしろく思います。
歌川国貞 アムステルダム国立美術館
参考文献:歌舞伎十八番 河竹繁俊/歌舞伎十八番集 郡司正勝/歌舞伎登場人物事典/歌舞伎の衣裳 丸山伸彦/歌舞伎手帖 渡辺保