歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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歌舞伎のことば:「ホホ、敬って白す」暫のツラネ

先日、オリンピック開会式で海老蔵さんが披露された「暫(しばらく)」についてお話いたしました。

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この演目に関しては、今回の開会式では残念ながら披露されなかったとても重要なキーワードがあり、迷いましたがそちらについてもこの機にぜひお話しておきたいと思いました。

私としましても改めて調べ直し、先人の演出術などに関し深い学びがありました。様々な事情で不要とされてしまったものだったのかもしれませんが、やはりこれはどうしても外せないのでぜひお話しておきたく思います。いつか劇場で上演の際などにお役に立てれば嬉しく思います!

「ホホ、敬って白す」暫のツラネ

(しばらく)は、「しばらく、しばらく」と言いながら登場した主人公が、尋常ならざるパワーで悪者たちをやっつけ、善良なる人々を助けてめでたしめでたしという、ごくシンプルな内容の演目です。

華やかすぎる登場人物たちが様式的に、かつユーモラスに演じる一幕であり、江戸時代の歌舞伎界において最も重要な興行「顔見世(かおみせ)」で上演するのを習慣とし、スタイルだけ踏襲して毎回内容が変わる一座の御目見えとして喜ばれていました。

 

暫において最も重要かつ盛り上がるのが主人公が「しばらく、しばらく」といって現れる登場シーンであり、そのあとに続く「ツラネ」です。

ツラネ」というのは、主に暫のような荒事の主人公が花道にやってきて、爽快かつ流暢に言い立てる長台詞のこと。口跡が重要視されている芝居の世界において、見事な発声技術で観客をあっと驚かせ、湧きたてる演出です。延年の舞の連事をルーツとすると言われています。

 

特に暫のツラネは、初演の初代團十郎の「大福帳」の言い立てが評判であったことから代々続けられ、江戸時代においては毎回主役の役者が書きおろすというていになっていて、楽しみにされていました。現代においても上演のたび少しずつ変わり、楽しみにしている方の多い部分です。

多くが「東夷南蛮北狄西戎(とういなんばんほくてきせいじゅう)」などの難解な美文調に始まり、「ホホ、敬って白す(もうす)」と締めくくられます。

 

そんな「暫のツラネ」は、一部の芝居好きの人たちだけではなく、江戸の庶民にとってもお馴染みのものでした。家屋が倒壊ししばらく野宿を強いられるという安政大地震の被害状況を伝える「しばらくのそとね(外寝)」という絵からもそれがわかります。

 

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しばらくのそとね 国立国会図書館

「しばらくのそとね」は「暫のツラネ」のもじりであり、「暫のツラネ」に載せて被害状況を伝えたうえ、團十郎の暫が要石で鯰を押さえたぞとアピールしているのです。

江戸の人々は、この團十郎の姿と「暫のツラネ」のパワーや洒落っ気により笑い、癒され、この最悪な状況もきっと晴れるに違いないと思えたのだと思います。

 

河竹繫俊氏著「歌舞伎十八番」の付録に江戸時代の暫のツラネが掲載されており、役者たちの人柄や上演の背景が感じられてとてもおもしろいので、かなりマニアックにはなりますがそのうちのいくつかをご紹介いたします!

宝暦六年市村座「復花金王櫻」市川海老蔵しばらくのせりふ

左青龍(させいりょう)、右白虎(うびゃっこ)、前朱雀後玄武(ぜんしゅじゃくごげんむ)、四神相応の若衆ぶり、ぶりでも鮪(しび)でも鯨でも、当たるがさいご、突き抜けるご存知の魚虎若衆(しゃちほこわかしゅ)、わかしゅわかしゅ海鼠は嫌か、嫌でもないが、念者が叱る、念者は誰だ、蛸の入道前関白太政大臣王氏を出て遠からず、清和天皇の末孫、源の義朝が郎等、渋谷の金王昌俊年つもって十八歳、お馴染みの古若衆、古きを以て新しき四五年ぶりでの返り花、可愛がって、くんさりませと、ホホ、敬って申ス。

これは上演年代と照らし合わせると二代目團十郎の海老蔵ではないかと思われます。

当時68歳で江戸時代においてはかなり高齢ですが、「暫」は前髪のある若者ですので洒落を利かせています。暫のツラネは役者から観客へのコミュニケーションのような役割を担っていたのではないかと思います。

天明六年中村座「雲井花芳野壮士」三代目市川八百蔵

東夷南蛮北狄西戎(とういなんばんほくてきせいじゅう)四異八荒、天地乾坤(てんちけんこん)のその間に、武備逞しき市川の清き流れを受継で、我にて名苗字三代の躰をあらわす三升の紋、有べき人の知らざらんや、夫須弥(それしゅみ)の四天王は、多門持国増長広目(たもんじこくぞうちょうこうもく)、頼光(らいこう)の四天王は綱金時貞光李武、当時和歌の四天王は、頓阿慶運浄弁兼好(とんあけいうんじょうべんけんこう)、ここに官軍の惣大将、新田左中将義貞(にったさちゅうじょうよしさだ)が四天王は、畑亙理栗生篠塚伊賀守定綱(はたわたりくりゅうしのづかいがのかみさだつな)、足利家にも今聞けば、四天王のおっかぶせ、重ね扇の色悪にて、尾上と位にへのぼれば、類を集むる友烏、勘左衛門こそ中島の悪み(にくみ)を松本小次来歴、いうに及ばぬ赤っ面、向こう面には坂東一、又類なき兄イたち並べておいて今そこへ、幾蔵(いくぞう)などとおしきせの、せりふも如何若者の、暫ならぬ自堕落に、育てられたる兄弟も、弟は丸に色事仕、兄は三升の荒事仕、つらねもきまるやおさ丸屋、広治(ひろじ)お江戸のお取立、八百八町八百万(やおよろず)、一番太鼓かぐら月、天の岩戸の顔見世と、ホホうやまってもうす。

これはこのすえひろの推しである三代目市川八百蔵のツラネです。この方は様々な家を行き来して、たくさんの名跡を名乗った役者なのですが、歴史上の錚々たる四天王たちを並べて舞台の上の先輩たちを紹介することに時間を割いていますね。難しい名前を並べて言い立てることで、観客の楽しみもしっかり作っています。

さらに「弟は丸に色事師、兄は三升の荒事仕」とあるのは、弟の三代目沢村宗十郎が和事を得意とする人気者であったためです。

自分が暫で登場するぞというときに自分以外の人のことをこんなに盛り上げるというのは、サービス精神と自虐が絶妙に入り混じっているように感じられおもしろいものです。

周りの人とうまくいかない人だったのではと想像していましたが、これを読むと案外人たらしで、可愛がられていたのかもしれません。

天保三年 河原崎座「頼有御摂綱」碓氷荒太郎貞光 八代目團十郎

東夷南蛮北狄西戎(とういなんばんほくてきせいじゅう)四異八荒、天地乾坤(てんちけんこん)のその間に、あるべき人の厄介小僧、八百八町八百万(やおよろず)の、神と仏の恵みにて、その御贔屓に宿り木や、取揚げ婆アは成田の不動、おぎゃアというも暫くも、同じ産声揚げ幕の、母の胎内蹴破って、罷り出でたる某は碓氷荒太郎貞光、江戸吉例の悪魔払い、つん並んだる向こう面、おとっさんでも構やせぬ、こちゃ構やせぬ、昔々のじい達が、願いの筋隈掛烏帽子、柿の素襖に鶴菱は、御恩を着升おいらが産着、すてきな御利生(ごりしょう)めっぽうな、御利生大太刀ちから紙、御見物のうぶすなへ、今日宮参りの花の顔見世、妨げひろぐ赤蛙(あかがえる)、玩具の中のがらくため、富士と筑波の真ん中から、天の川へ放り込むと、ホホ敬白(うやまってもうす)。

こちらはなんとわずか10歳の八代目團十郎が暫を披露した際のツラネです。美少年による立派な暫に芝居小屋の客席が熱狂している、輝かしい光景が目に浮かぶようです。

神と仏の恵みにて、その御贔屓に宿り木や、取揚げ婆アは成田の不動や、江戸吉例の悪魔払い御利生などの文言をつかい、明確にその神格性が表現されている一例ですね。すごい團十郎が生まれたぞという期待感を盛り込んだものと思われます。

八代目團十郎は容姿端麗なうえ早くから才能を発揮し、江戸中に愛される空前のスーパースターとなりましたが、32歳の若さで突然自ら命を絶っています。ファンの悲しみはすさまじく、膨大な数の死絵が出版されたことでも有名です。命を絶ってしまった理由はわかりませんが、背負っていたものの大きさは計り知れません。

 

参考文献:歌舞伎十八番 河竹繁俊/歌舞伎十八番集 郡司正勝/歌舞伎登場人物事典/歌舞伎の衣裳 丸山伸彦/歌舞伎手帖 渡辺保/江戸演劇史 上  渡辺保

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