現在歌舞伎座で上演されている八月花形歌舞伎!
第三部で上演されている「三社祭」は、染五郎さんの悪玉と團子さんの善玉という若々しい組み合わせで話題を呼んでいます。はつらつとしたお二人の踊りは拝見していてとても楽しく、元気をいただきました。
三社祭といえば浅草のお祭りですけれども、この演目は一体なにがどう三社祭であるのか一見わかりにくいのではと思います。注目の演目ですので、この機会に少しばかりお話してみたいと思います。芝居見物や配信の際など、何らかのお役に立てればうれしく思います!
江戸庶民におなじみの「浅草観音の縁起話」
三社祭(さんじゃまつり)は、1832年(天保3)に江戸は中村座で初演された「弥生の花浅草祭(やよいのはなあさくさまつり)」の一景です。作詞は二代目瀬川如皐、作曲は二代目清元延寿太夫が手掛けています。振付は初代藤間勘十郎、初演は四代目三津五郎・四代目歌右衛門です。
北斎「踊獨稽古」より悪玉踊り(部分) 国立国会図書館デジタルコレクション
「三社祭」はその名前のとおり、江戸で最も大きな年中行事である浅草神社(三社明神)の祭礼・三社祭を題材としているわけですが、現行の上演部分には三社祭で連想されるお神輿や祭りの風景を描いた大道具などは舞台上に登場しません。
というのも舞踊は祭りそのものの情景を描いているのではなくて「祭礼の山車の人形に魂が入って踊り出した」という趣向で、浅草観音の縁起話を題材に展開していくからです。この縁起話は江戸の庶民にはお馴染みのものであったらしいのですが、現在ではそうでもないかもしれませんので、まずは元ネタについてお話したいと思います。
時は推古天皇三十六年(628年)、3月18日の早朝のこと。
現在の隅田川であるところの宮戸川にて、檜前浜成(ひのくまはまなり)と竹成(たけなり)という兄弟が漁をしていました。すると投網の中に、黄金に輝く一寸八分の小さな仏像を発見します。
浜成・竹成兄弟にはこの仏像が何なのかよくわからず、仏像を水中に戻して別の場所で漁をしてみました。すると不思議なことに、網を揚げるたびに黄金の仏像が網にかかるので、二人はひとまず仏像を持って帰ることにしました。
そして土地の長・土師中知(はじのなかとも)に相談してみたところ、どうやらこの黄金の仏像は観世音菩薩さまであるということがわかりました。
これを聞いてなんとなく信仰心を刺激された兄弟は、観音様に「どうか明日は大漁になりますように」と祈ってみました。すると翌日の漁は本当に大漁となったのです。
土師中知も観音さまの不思議におおおと感化されてしまったようで、近隣住民たちに観音さまのありがたさを説いて回り、「必ず功徳をお授けくださる仏様だ」と自宅をお寺にしてまで観音さまの礼拝供養を行い続けたのでした。
その後、645年に勝海というお坊さんが観音さまをご本尊にお堂を立てて、現在の浅草寺が開山となったのであります。この観音さまは現在も絶対秘仏とされていて、御住職でさえもご覧にならないそうです。ちなみに一寸八分(約5.5センチ)というのは江戸の俗説であり、本当のところはわかりません。一体誰がこういうことを言い出すのか、おもしろいですね。
そこからさらに時が下ったある日のこと、土師中知の子孫が、夢の中で観音さまからお告げを受けました。「浅草寺の創建に関わった檜前浜成・竹成兄弟と土師中知の三人を祀って子孫とこの地を未来永劫繁栄させなさい」というものです。
子孫がこのお告げを守って創建されたのが、浅草寺の横にある浅草神社です。この神社が三社権現、三社様と呼ばれ、ゆかりの3月に「三社祭」を行っていたのであります。
この浅草寺と浅草神社の伝説は江戸の庶民にお馴染みで、「網の目をぴかりぴかりと宮戸川」などと川柳にも詠まれたそうですよ。
①三月の中村座、②浅草祭という題、③船に乗った二人の男、という要素が揃っているだけで、江戸の人々は「あぁあの伝説ね!」とわかったのだと思います。
参考文献:新版歌舞伎事典/日本舞踊曲集成/舞踊名作事典/日本舞踊ハンドブック