現在歌舞伎座で上演されている八月花形歌舞伎!
第三部で上演されている「三社祭」は、染五郎さんの悪玉と團子さんの善玉という若々しい組み合わせで話題を呼んでいます。はつらつとしたお二人の踊りは拝見していてとても楽しく、元気をいただきました。
三社祭といえば浅草のお祭りですけれども、この演目は一体なにがどう三社祭であるのか一見わかりにくいのではと思います。注目の演目ですので、この機会に少しばかりお話してみたいと思います。芝居見物や配信の際など、何らかのお役に立てればうれしく思います!
四代目坂東三津五郎と二代目中村芝翫
三社祭(さんじゃまつり)は、1832年(天保3)に江戸は中村座で初演された「弥生の花浅草祭(やよいのはなあさくさまつり)」の一景です。作詞は二代目瀬川如皐、作曲は二代目清元延寿太夫が手掛けています。振付は初代藤間勘十郎、初演は四代目三津五郎・四代目歌右衛門です。
北斎「踊獨稽古」より悪玉踊り(部分) 国立国会図書館デジタルコレクション
その四までで、江戸時代の人々にとって舞踊「三社祭」はどのようなところがおもしろかったのか、当時の流行や考え方などをご紹介しつつ考えてみました。どうやら飛んだり跳ねたりする躍動感のある動きだけではなかったようです。
①当時お馴染みだった「心学」の考え方、②山東京伝の流行本から生まれた「悪玉善玉」のキャラクターのおもしろさ、そして③先代の三代目三津五郎がブームを起こした「悪玉おどり」、という3つの要素が、より舞踊をおもしろくしていたのではないかと思われます。
実は初演時には、もうひとつの要素が加わっていました。それが初演時に善玉悪玉を勤めた四代目坂東三津五郎と二代目中村芝翫というコンビ、そして上演タイミングの妙でした。
初演の前年の1831年(天保2)、文化・文政期を代表する名優であった三代目三津五郎がこの世を去りました。「悪玉おどり」が大流行したとお話したその人です。
この三代目三津五郎が変化舞踊を大変得意としていて、同じく文化・文政期を代表する名優で舞踊の名手であった3歳年下の三代目歌右衛門と競いあうようにして、七変化、九変化、十二変化…とたくさんの変化舞踊を手掛けて見物客を楽しませていたのだそうです。
古今俳優似顔大全 国立国会図書館 右:三代目三津五郎 左:三代目歌右衛門
ライバル関係にある頂点の名優同士が人気を競り合っているさまを見られることほど、観客にとっておもしろいものはないと思います。しかし天保2年をもってそれは叶わなくなりました。
三代目三津五郎には二代目坂東簑助という養子の後継者がいて、師匠の死を受けて1832年(天保3)に四代目三津五郎を名乗る運びとなります。
実は三代目歌右衛門にも、同じく後継者となる優れた門弟・二代目芝翫がいて、年齢も四代目三津五郎と2歳差というちょうどよい具合であったのです。
そこでライバル関係にあった名優同士それぞれの芸を受け継いだ若い二人が、中村座で踊り比べをして見せるという趣向で上演されたのが、1832年(天保3)初演の四変化舞踊『弥生の花浅草祭(やよいのはなあさくさまつり)』だったのであります。
しかも、四変化のうち「武内宿禰」「三社祭」「石橋」に登場する漁師もまた三代目三津五郎・三代目歌右衛門ゆかりのもので、さらに「三社祭」も三代目三津五郎の「悪玉おどり」を彷彿とさせるものであり、どう考えても胸が熱くなる出し物であったのでした。
古今俳優似顔大全 国立国会図書館 右:四代目三津五郎 左:四代目歌右衛門(二代目中村芝翫)
四代目三津五郎と二代目中村芝翫(のちに四代目歌右衛門)は師匠たち同様に、ライバル関係になって人気を争いました。江戸時代にタイムスリップできるようなことがもしあれば、ぜひ見てみたいものです。
参考文献:新版歌舞伎事典/日本舞踊曲集成/舞踊名作事典/日本舞踊ハンドブック