ただいま歌舞伎座では
市川海老蔵改め 十三代目 市川團十郎白猿襲名披露
八代目 市川新之助初舞台 十一月吉例顔見世大歌舞伎が上演中です。
市川團十郎といえば江戸歌舞伎を象徴する大名跡。9年間にわたる空位を経て、ここに新しい團十郎さんが誕生しました。その記念すべき襲名披露の狂言として選ばれているのが「歌舞伎十八番の内 勧進帳」です。
勧進帳は数ある歌舞伎演目の中でも大変特別な存在でありますので、またとないこの機会を記念して、改めてお話したいと思います。團十郎襲名に際しいろいろとお話すべきことはあるのですが、ひとまず舞台の内容についてお話いたします。芝居見物や配信、テレビ放送の際など、なんらかのお役に立てれば幸いです。
あらすじ④ 判官御手
歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)は、1840(天保11)年3月に江戸の河原崎座にて七代目市川團十郎によって初演された演目。都を追われた義経の逃避行を描く能の「安宅」を題材としています。
なんとしても主君義経を守らねばならない弁慶が、極限状態のなかで発揮する知略と胆力、そしてすべてを飲み込んで義経一行を通す関守の富樫のドラマが見ものです。能舞台を模した松羽目と呼ばれるシンプルな大道具を使い、長唄と呼ばれる華やかな音楽とともに、大変スリリングな物語が展開していきます。
国立国会図書館デジタルコレクション
基本的な事項を本当にざっくりとお話しますとこのようなものです。
①兄頼朝に疎まれ都を追われた源義経は強力(荷物持ち)に姿を変え、山伏一行に変装した武蔵坊弁慶たちとともに奥州へ向け逃避行している。
②一行は関守の富樫左衛門が守る安宅の関に到着。ここには既に「義経たちが山伏に変装して逃げている」という情報がもたらされており、山伏は殺害するという方針がとられていたが、弁慶たちを尊き山伏と判断した富樫は、一行を通そうとする。
③富樫の番卒の一人が、強力が義経に似ていると富樫に進言する。追い詰められた弁慶は、強力が義経ではないことを証明するため、主君にもかかわらず下男のように散々に杖で打ってみせる。
④すべての事情を覚った富樫は、弁慶の姿に胸を打たれ、自分が罰されることを覚悟の上で一行を通す。弁慶は富樫の計らいと天の守護に深く感謝し、旅を続ける。
全編にわたって見どころばかりの演目で、舞台を見ているだけでも陶酔感があるのですが、初めてご覧になる場合にはわかりにくい部分もあるかと思います。前提情報などを含めて、長唄の詞章などを交えながら詳細にお話してまいります。
ひとまずは演目の流れをブロックごとにご紹介いたしました。ここから各ブロックごとにお話してまいります。
①富樫の名乗り・義経一行 花道の出
② 富樫の詮議~山伏問答
③ 義経打擲~富樫の引っ込み
④ 判官御手
富樫は強力が義経であると気付きながらも、弁慶の必死の思いに胸を打たれ、安宅の関を通過することを許可し、立ち去っていきました。
舞台の大道具は変わりませんが、弁慶率いる義経主従は関を越え、しばらく歩いてきた…というていです。「谺(こだま)の合方」という三味線の演奏があり、木々に囲まれた静かな風景を感じさせます。
上座に義経をいざない、弁慶は下手に。その間に四天王がそれぞれ並んで座り、ひと息つこうというところです。
「いかに弁慶」
と口を開いた義経。死が目前に迫るなか下男のように自分を打って助けた、弁慶の常人ならざる機転を褒めて、弓矢の神である八万大菩薩のお告げか…と深く感謝します。
四天王たちも口々に、弁慶の智謀を褒めたたえ、神仏のご加護に感じ入っています。
下座にいる弁慶も、神仏からもたらされた幸運は喜びながらも、非常に心苦しそうにしています。「計略とはいえ、主君を杖で打つことがいかに恐ろしい事か。怪力を誇る私でさえ、金剛杖を持った時、腕もしびれるように覚えた…もったいない、もったいない…。。」と、深く頭を垂れ、むせび泣きに震える弁慶。
長唄では、このように唄われます。
〽ついに泣かぬ弁慶も 一期の涙ぞ 殊勝なる
これは「弁慶は一生に一度しか泣いたことがない」という豪傑伝説によるものです。
一生に一度の涙とあれば、どこで泣くのかがドラマになりますので、弁慶はさまざまな演目で泣いています。なかでも勧進帳の弁慶の涙は、もっとも観客の胸を打つもののひとつではないかと思います。いかに義経を崇敬し、大切に守り、全身全霊をかけてきたか、弁慶の生き様が見えてくるような涙ではないでしょうか。
そんな弁慶の姿を見た義経は、貴き御手を差し伸べます。
〽判官御手を取り給い
実際の義経は武人なのですから、きっとごつごつとした手であろうと思いますが、歌舞伎の舞台の上では、崇高さをも放つ美しき手に見えてきます。ゆっくりとしたわずかな動きであるのに、差し伸べられた手を見た弁慶はハハァと平伏し、その思いに深く涙します。義経はそんな存在であるということです。
義経、弁慶、四天王。みな深く感じ入る美しいシーンです。
義経を悲劇の貴公子としてかわいそうに思う、まさに判官びいきの概念というのは、近世の物語において大変根強いものであったようです。この後に続く義経のセリフや、長唄の詞章からもよく感じ取ることができます。
「いかなればこそ義経は、弓馬の家に生まれ来て、
命を兄頼朝に奉り、屍を西海の波に沈め」
武士の家に生まれ、命を兄の頼朝に捧げ、屍を西海の波に沈めた…それにも関わらず、義経は流浪の運命にある。その悲運、はかなさに、市井の人々は心を寄せてきたのですね。
その言葉を聞いた弁慶は舞台の中央へと出てきて、長唄の詞章と独特のマイムに乗せて、義経との源平合戦歴戦の思い出を描き始めます。
躍動感があるので踊りのようですが踊りというよりは物語と呼ばれる演出の一種で、主に戦場の回想を表現するときに登場します。詞章を読みますと、弁慶の動きが何を表現しているのかよくわかるようになります。長いですがぜひご一読下さい。
〽鎧にそいし袖枕 かたしく暇も波の上
ある時は船に浮かび 風波に身を任せ
またある時は山脊の 馬蹄も見えぬ雪の中に
海少しあり夕浪の 立ちくる音や須磨明石
荒れ狂う風波に身を任せた海戦、時には鎧を枕に眠ったことも、波の上で眠る暇さえなかったこともありました。鵯越の山中、馬蹄も見えぬほどの雪道に迷ったこともありました。それは実に三年間に及ぶ苦闘の日々でした。
須磨明石のあとは、右足を投げ出し、右手を掲げた形で決まります。「石投げの見得」と呼ばれています。
〽とかく三年の程もなくなく いたわしやと
しおれかかりし鬼薊 霜に露置くばかりなり
三年間のうちに重ねてきた数々の苦労が報われることなく、このような憂き目に遭われていること、なんといたわしいことか。私のような鬼薊もしおれかかり、霜に打たれ、露をたたえているようです…という弁慶の嘆き。
個人的にこの物語のシーンがすごく好きです。二人がともに戦ってきた戦場での輝かしい思い出の数々が脳裏に浮かび、現在の運命の悲しさがくっきりと浮かび上がるように感じられるからです。ぜひ役者さんの動きと一緒に長唄も味わってみてください。
とにかく、ここは早く失礼しよう…と、一行は旅路へ急ぐこととします。
〽互いに袖をひきつれて いざさせ給えの折柄に
⑤に続きます。
参考文献:勧進帳考 伊坂梅雪/歌舞伎オンステージ 10/勧進帳 渡辺保/歌舞伎狂言往来/新版歌舞伎事典