お江戸よりはるばる京へ参りまして
京の年中行事 當る子歳 吉例顔見世興行を拝見してきました!
このずらりと並んだまねきの華やかなようすを目の当たりにしますと、いよいよ年の瀬であるな…という感慨が深まります。
南座へ参りますとつくづく劇場建築はこうでなくちゃと思わされます。
高尚さといかがわしさがせめぎ合うようなド派手さ、心が浮き立つようなハレの空気に熱が出そうです。
例年一年間の芝居見物をしめくくる興行として京都の顔見世を堪能しているため、
ああ…終わった…という思いで胸いっぱいになってしまい、
今回特に寒く、嵐山など散策してしまいポーッとしていて発熱気味なのですが、
実は今年の芝居納めはここではございませんで芝居見物は続きます。
ナウシカを完結させるためしゃっきりと目を覚さねばなりません。
教科書で見たあの白象が目の前に
それはそうと今日は、三十三間堂への拝観とともに向かいにある養源院へ参りました。
あえて残された見事な紅葉の葉。
菊畑で、わざと落ち葉を残して庭をはいて鬼一法眼に褒められていた智恵内が出てきそうです。
中へ入りますと智恵内ではなく、親切なガイドの方が出迎えてくださいました。
ここ養源院は淀殿が父浅井長政の供養のため、秀吉に願い建てられたもので、
皇室の「菊」徳川の「葵」そして豊臣の「桐」の紋が揃っている他に類を見ないお寺なのだそうであります。
このお寺の杉戸には俵屋宗達の直筆、現物の絵が残っており、これを拝見したく参りました。
描かれているのは白象、麒麟、獅子。
かなりのデフォルメにもかかわらず、今にも動き出しそうな雷獣たち。
その筆致にいたく感動し、震えるような思いがいたしました。まるで魂がこもっているかのようです。
ガイドの方が「お客様のために描かれたものではない」とおっしゃられて、この絵の持つ独特の美しさのゆえんがわかったような思いがしました。
戦乱の世に散った多くのさむらいの魂を慰めるため祈りをこめた筆であるからこそ、この異な姿が真として心に響くのでしょう。
そんな何物にも替えがたい絵を、美術館や博物館に飾られているのではなくて、この建物のライティングの中で、宗達が意図した真の状態で拝見できるというのも、
もう頭がパンクしそうなほどに素晴らしい体験であり、興奮のあまり身震いいたしました。
そして、このお寺のもう一つの特徴が「血天井」
なんとこの養源院の天井には、
切腹した鳥居元忠はじめ沢山のさむらいのご遺体から流れ出た、赤黒い血の跡が思い切り残っているのであります。
シミかな…伝説だろうな…という程度ではなくて、人間の形や手の跡までもがくっきりと見えるのです。
伏見城の戦いの最中に鳥居元忠が自刀し、多くの家臣も自刀…そのたくさんの遺体が、
暑い夏の関ヶ原の戦いの間2か月も放置されていたために、取れない血の跡が床板にくっきりと残ってしまったのだそうです。
その魂を弔い、床板をこのお寺の天井に使ったのだそうであります。
書物の上でしか知ることのできないさむらいたちが、自分と同じ血の流れる肉体を持って現実に生きていたということ、
ごく当たり前のことではあるものの、初めて実感したように思います。
お寺のガイドの方が拝観者たちにお話してくださるのですが、全員がゾッとしている空気感がたまらず
ただでさえ寒いうえ本当に芯から冷える底冷えといいますか、シーンと張り詰めた鎮魂・祈りの空気を感じました。
そんなガイドツアーも終盤に差し掛かった頃、玄関先からなんと一匹の三毛猫がひょっと乱入してきたのでした。
お外も非常に冷えておりましたので、人々の気配に暖を求めたのかもしれません。
貴重なものばかりのお堂ゆえ猫ちゃんはすぐにお外に出されてしまったのですが、一瞬にして空気がほっこりとくだけ、心が非常に慰められまして、
人の営みというのは本当にたわいもない、はかない、悲しいものだなとつくづく思われました。
心温まり楽しいのはほんの束の間であり、あとは悲しみばかり。そういったことを何千何百年と繰り返してきたのだなと感じます。
ですので、一瞬の夢を見せてくれる芝居というものは、本当にかけがえのない宝であります。
このすえひろにとりましてここは、恐らく一生忘れられない場所になるであろうと思われます。
京都へお出かけの際は拝観をオススメいたします。
ガイド付きで30〜40分かかりますので、芝居見物の前後に行かれる場合は要注意です!
ガイドの方のお話は非常に楽しく、かつ深い学びのある内容で必聴ですので、時間に余裕のある時が良いかと思われます。
恐れながら話が横道に逸れすぎて、一体何を書いているのか自分でもよくわからなくなって参りました。
とにかく体調が悪いうえ移動中ゆえまた改めて、感想など残したいと思います!