昨日歌舞伎座で無事千穐楽を迎えた八月納涼歌舞伎にちなんで、
第二部「修禅寺物語」や作者の岡本綺堂についてのお話をしてまいりました。
岡本綺堂のお話をしたのならば、
やはり二代目市川左團次についても触れておきたいと思い、
少しばかりではありますがお話したいと思います(人'v`*)
やさしい修禅寺物語 その一
やさしい修禅寺物語 その二
やさしい修禅寺物語 その三
歌舞伎のなまえ:岡本綺堂と新歌舞伎
新歌舞伎の世界に存在感を発揮
二代目市川左團次は明治13年(1880年)に生まれました。
「團菊左」 と称されて人気を博した初代左團次の長男でありましたが、従来の歌舞伎の演技体系の中に特徴を見出すことができずに悩んでいたのだそうです。
オッペケペー節で有名な川上音二郎の一座に正式に入ることも考えたようであります。
そんな悩める二代目に、ある転機が訪れます。
それはヨーロッパへの演劇視察です。
実は父親である初代左團次には
はじめて狂言作者以外の、一般の劇作家の作品を歌舞伎で上演するという、
現在に残る「新歌舞伎」の礎を残した功績があるのです。
その最初の作品というのが松居松葉(のちの松翁)の『悪源太』でありました。
初代左團次は周囲からの反対を押し切って、松葉と提携し新作を発表したのです。
そんな初代の没後、松葉は息子の二代目左團次をヨーロッパ演劇巡礼に誘いました。
ヨーロッパ各地でたくさんの芝居を見たり、ロンドンの王立演劇学校に学んだりと、西洋の演劇のようすを肌で感じる旅であります。
この刺激的な旅からの帰国後、二代目左團次は精力的に活動をはじめます。
なんとも連れて行き甲斐のある青年ですね(´▽`)
ヨーロッパに起こっていた演劇運動にならい、
明治42年(1909年)劇作家の小山内薫とともに「自由劇場」を発足。
「どん底」や「寂しき人々」などの翻訳劇の上演に取り組みます。
これは日本の新しい演劇世界「新劇」の先駆けとなりました。
その後、岡本綺堂とタッグを組んだ「修禅寺物語」が評判を呼び、
真山青果など数々の劇作家・文芸家の新作脚本や史劇を展開したり、
四世鶴屋南北の作品を復活するなど、歌舞伎の新しい時代を築いていったのでした。
のちに二代目左團次は新作歌舞伎の得意芸を集めて「杏花戯曲十種」を制定していますが、
「修禅寺物語」「番町皿屋敷」「佐々木高綱」などそのほとんどが岡本綺堂作のものであります。
西洋の香りを取り入れた独特の芸風と線の太さ、ハイカラさから、
「大統領」などと呼ばれていたそうです。
歌舞伎役者の愛称とは思えぬ、なんともアメリカンな雰囲気ですね!
また、
途中でセリフを間違えると元に戻って言い直すほどに誤魔化しのできない人柄で、それでも失笑を買うことない堂々たる風格を持っていた
と左團次さんのホームページに記載がありました。
当代の左團次さんとは血縁はなく芸風も異なるそうなので、
どんな芝居をされていたのかは想像をするほかないのですが、
芝居の上でも人柄の上でもとても魅力的な方だったのでしょうね。
激動の明治の演劇界で活躍されていた方々の功績すべてが
現代の歌舞伎の礎であると思うと、
感謝の念で胸がいっぱいになるようです(n´v`n)