ただいま国立劇場で上演されている通し狂言 霊験亀山鉾!
霊験亀山鉾は、元禄に実際に起きた「亀山の敵討」という実際の事件をもとにして作られたたくさんの作品の中のひとつです。
「亀山の敵討」は非常にドラマチックで魅力ある事件であったために、
作者の鶴屋南北も霊験亀山鉾を含めて4本もの演目を残しています。
そんな亀山の敵討がどんな事件であったかを、かいつまんでお話したいと思います(人'v`*)
亀山の敵討ち
亀山の敵討は1701(元禄14)年、伊勢は亀山城下にて
当時34歳であった兄の石井源蔵と3つ下の弟 半蔵が
父の敵である赤堀源五右衛門を討った事件であります。
なんと、父が殺された時点で二人はわずか5歳と2歳。
30年近くの時を経てようやく討ち取った親の敵だったのです。
長い年月の間には、数々の不遇がありました。
半蔵と源蔵には兵右衛門という年の離れたお兄さんがいましたが、
お兄さんはとうとう赤堀源五右衛門本人を見つけることができず、
代わりに源五右衛門の父・有閑を討ち取りました。
当時は親兄弟や師匠などの大切な人が不当に殺害されて
殺人犯が行方をくらませてしまった場合、
敵討ちという手段に出ることが公に認められていたために
兵右衛門自身も源五右衛門にとっての父の敵となってしまったのです。
お互いに父の敵同士である二人。
8年の時を経て、兵右衛門の方が先に源五右衛門に討たれてしまったのでした。゚゚(´□`。)°゚。
父だけでなく兄も失った源蔵と半蔵…
しかし、敵討ちを諦めることは決してありませんでした。
源五右衛門が赤堀水之助と名を変え、
板倉周防守の家臣として伊勢亀山に住んでいる!
という重大な情報をついに突き止めたのです(・0・;)
二人は周防守家臣たちの若党や草履取となって下働きをしながら、
敵討ちの機会をいまかいまかと伺いました…
そしてついに1701(元禄14)年5月9日
二人は源五右衛門を待ち伏せし、憎き敵を見事討ち取ったのでした!
この事件は、当時の人々の大好きだった
曽我十郎・五郎兄弟による18年がかりの敵討ち「曽我物語」になぞらえて
「元禄曽我」と呼ばれて様々に劇化されたようですよ。
現代の感覚からすると、敵討ちが公に認められていたということ自体が驚きですΣ('0'o)
何年も前に世にも奇妙な物語で見た「仇討ちショー」という物語を思い出してしまいました。
小説があるようですので、ご興味をお持ちの方はぜひ…