今月歌舞伎座で上演されていた壽初春大歌舞伎。
このブログでも昼の部「奥州安達原 環宮明御殿」について
あらすじなどいくつかお話してまいりました。
せっかくの機会ですので、演目ゆかりの邦楽用語に関しても少しばかりお話したいと思います。
なんらかのお役に立てればうれしく思います。
「瞽女」さんの生きざま
奥州安達原 環宮明御殿の場は、「袖萩祭文」の通称でも知られています。
武家に生まれながら両親の反対を押し切って浪人と駆け落ちをし、
娘をもうけるも夫に失踪され、苦労を重ねて泣きはらし盲目となり、
瞽女(ごぜ)として門付けの芸を披露することで娘と二人なんとか生きてきた、
歌舞伎の女性の中でもトップレベルの苦労人である袖萩という女性が、
雪の降りしきるなか父親の命の危機に際して実家へと駆け付けて、
枝折戸の外から父母への思いをのせた歌祭文を聞かせる…という、
哀々切々たる場面が有名であるためです。
さむらいの娘であったはずの袖萩は、盲目になりながらも芸を磨き、
ひどい差別を受けながらも娘と二人懸命に生きてきたのだな…と想像させる名場面です。
袖萩母子の命をつないだ瞽女(ごぜ)というのはどういったお仕事だったのでしょうか。
瞽女(ごぜ)とは、
古く室町時代ごろからいたのではないかと考えられている盲目の女性旅芸人。
鼓を売ったり、江戸時代からは三味線を弾いたりしながら歌うという芸を披露して暮らしていました。
当時、こういった芸人の方々は主に「門付(かどづけ)」というスタイルで稼いでいたようです。
門付とは、人々の家の門口に立って芸を披露することで金品を受け取るというしくみで、
発生初期には神さまの訪れのようにして喜ばれる存在であったようですが、
やがては物乞いのような位置づけとなっていたそうであります。
さぞやひどく差別され、辛い思いをなさっていたのだろうなと想像されますが、
娯楽の少ない山里をめぐりながら芸を披露していた瞽女たちは、
農村部などでは非常に歓迎されて、小栗判官などの物語や流行歌などを演奏して喜ばれていたそうであります。
国立国会図書館デジタルコレクション 歌川広重 東海道五拾三次 二川・猿ケ馬場
この歌川広重の絵に描かれているのは、
現在の愛知県豊橋市にあたる二川の街道筋を歩く瞽女たちの姿です。
瞽女たちは広く日本各地にみられたそうですが、
中でも一大拠点となっていたのは現在の新潟県で、
明治の初めには700人もの瞽女が厳しいしきたりのもとで組織化されていました。
極寒の土地で厳しい稽古を重ね、非常に厳密な日程で巡業を行い、
はるばる東北地方まで音曲を披露して歩きました。
しかし、ラジオや活動写真などの娯楽の発展とともに衰退し、
2005年に105歳で亡くなられた長岡瞽女の小林ハルさんを最後に途絶え、
地域伝承としての再現形式を残すばかりとなりました。
不十分とはいえ、現代社会には福祉という制度がある程度整っているわけですが、
制度の全くない厳しい時代に生きていた目の不自由な方々にとっては、
瞽女や琵琶法師といった音楽のプロフェッショナルとして従事することが
とても重要なセーフティーネットとなっていたのだろうと思われます。
つい劇場音楽として発展してきたジャンルにばかり目が行ってしまいがちですが、
こういった全国津々浦々の地域伝承としての音楽も非常に重要であり、
厳しい時代にあってさまざまな物語を音楽に乗せて、
現代まで守り伝えてくださった方々への感謝の思いで胸がいっぱいになります。
ちょうど今年の春には、最後の瞽女・小林ハルさんの生涯を描いた
映画「瞽女 GOZE」(滝沢正治監督)が公開となるそうです!
袖萩祭文が上演されたばかりですから、いっそうの思い入れを持って味わうことができそうですね…!
参考文献:日本大百科全書/新潟文化物語/瞽女資料館/南相馬市