先月上演されていた二月大歌舞伎!
あらすじのお話に回数を多く使いお話しきれなかった事柄がたくさんありますので、歌舞伎座の中止期間中を利用して少しずつお話してみたいと思います。
先月の歌舞伎座をご覧になった方にとってもそうでない方にとっても、なんらかのお役に立てればうれしく思います。
菅原道真没後、都はパニック状態に
菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、1746年8月に人形浄瑠璃として初演された演目。
大ヒットを受けて翌月に歌舞伎化され、現在に至るまで繰り返し繰り返し上演されている人気の作品であります。
物語のテーマとなっているのはさまざまな形での「親子の別れ」
現在も天神さまとして信仰されている菅原道真公(物語では菅丞相)の太宰府左遷を軸として、
菅丞相に大恩を受けた三つ子の松王丸・桜丸・梅王丸それぞれの思いを絡めて描き出されます。
①ではあまり上演されない物語のクライマックスについて簡単にご説明いたしましたが、時平公の悪事に怒り爆発の菅丞相が雷を落としまくって悪者を成敗という、非常におそろしい内容でありました。
おそろしいと申しますか、前半のムードと随分印象の違うド派手な結末に驚きを禁じ得ません。
しかしながら前半の時点で醸し出されていた丞相さまの神様らしい厳格さを思いますと、さもありなんといったところです。
この結末は実際の菅原道真伝説を色濃く反映していると申しますか、そもそもその伝説ありきの物語でもありますので、ご存知の方も多いかと思いますが簡単にご紹介いたします。
芝居における菅丞相のモデルはもちろん学問の神さまとしてお馴染みの菅原道真。
平安時代前期に活躍した律令官人であり、政治家、文人、学者として名高い人物です。
醍醐天皇の右大臣として重用されましたが、ねたみそねみを買った挙句に政敵・藤原時平から蹴散らされ、901年突如として太宰府へ左遷を命じられてしまいます。
太宰府では満足な食事もままならず、厳しい生活を送った道真は903年に没。
その数年後、都は大パニックに陥ることになったのです…
まず、さあこれから力を発揮するぞという藤原時平が39歳の若さで突然死去。
さらに時平の甥や孫を含む藤原氏の人々や道真の後任者なども次々に死去。
あろうことか宮中の清涼殿に雷が落ち、時平に加担していた藤原清貫(きよつら)、平希世(まれよ)などが打たれて焼け死んでしまい、
一連の事件のショックから醍醐天皇も崩御…と衝撃の出来事が続きました。
さらには、日照り、疫病、洪水などの大災害も次々に発生…
もはや人々の手には負えない状況に陥り「道真の怨霊のたたりに違いない、魂を鎮めなくては…」と考えられたのであります。
科学ではとても説明のつかない状況ですから、現代の感覚ではオカルト的だなあとは思われるものの、都の人々にとってはシャレにならない恐怖であったはずです。
雷神と恐れられた道真の魂は、942年火雷天神をまつる北野の地にまつられることとなりました。947年には神殿が建立されて北野天満宮となり、没地の太宰府天満宮と共に本宮に。
するとようやく都に平穏な日々が訪れ、天満宮および天神さまは人々の信仰を集めていったのだと伝わっています。
実際、その後長きにわたり道真の怨霊は恐れられており、学問の神さまとして人々に親しまれるようになったのは江戸時代に入ってからだそう。
しかもそのイメージチェンジに一躍買ったもののひとつが、菅原伝授手習鑑の名場面にもなっている「寺子屋の普及」であると言われています。
2020年という時代を生きる私たちが菅原伝授手習鑑に感動できるのは、こうした歴史あってのものなのですね。
現代であれば憚られるようなネタであっても、どんどんフィクション化して楽しんでしまえという、江戸時代の人々の自由な発想に感謝の念が湧いてきます。
次回は、菅原道真伝説にまつわる菅原伝授手習鑑の先行作についてもお話してみたいと思います!
参考文献:新版歌舞伎事典/歌舞伎オン・ステージ 菅原伝授手習鑑/日本近世絵画の図像学: 趣向と深意/日本大百科全書(ニッポニカ)