歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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【124年ぶりの2月2日】あすは節分ですね!

今年2021年の節分は、なんと明日2月2日なのだそうですね!1897年いらい実に124年ぶりのことだそうで、うれしくなってつい筆を取ってしまいました。

1897年は名古屋の御園座が開場した年で、杮落とし公演としてなんと初代左團次が出演していたそうです。歌舞伎美人によれば大入り満員であったということで、うらやましい限りです。

七代目團十郎も豆まきをしていた!

歌舞伎の節分といえばなんといっても「三人吉三巴白浪」ですね!

三人吉三巴白浪」は、節分の晩に三人の盗賊が出会い義兄弟の契りを交わしたことをきっかけに、それぞれの因果が巡り巡っていくという物語であります。「こいつは春から縁起がいいわえ」という台詞もたいへん有名です。

節分といえば豆まきですけれども、そういえば三人が豆をまいているシーンは見たことがないなあということが気になり、江戸時代の江戸の庶民には豆まきの風習がなかったのかなと思い調べてみました。

 

すると、豆まきの風習そのものは江戸どころではなくて、古く中国から伝わり、文武天皇のころ706年には宮中行事として執り行われていたことがわかりました。室町時代には公家や武家の間で広まり、江戸の中ごろには江戸の庶民の間でも広まっていったそうであります。

割下水あたりの家々から楽しげな豆まきの声は聞こえてくるけれども、アウトローな吉三郎達にとっては、そんなのやってられるかよ、という感じだったのかもしれませんね。

 

 

豆まきが江戸の庶民の間に広まるきっかけとなったのは、浅草寺で行われていた大規模な豆まきイベント「節分会」だそうです。浅草寺は当時のトレンド発信地的側面もあり、江戸で初めてこれを行ったのであります。

 

現代でもおすもうさんや海老蔵さんをはじめとする歌舞伎役者の方々が豆まきをするようすがニュースになりますが、江戸時代にもスターによる豆まきは人々のお楽しみであったようで、豊国による七代目團十郎の豆まきの絵が残っています。

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豊国 初代豊国錦絵帖 国立国会図書館デジタルコレクション

 

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カッコいいですね!!!確かにこれを見ると良いことがありそうです。

 

なぜ大豆をまくのかというと、「大豆は鬼の毒を殺して痛みを止めると中国の本草に書かれていた」「魔を滅する=魔滅=ま・め=豆」などの説があるそうです。

「鬼を滅する」といえば今はやはり鬼滅の刃ですけれども、鬼滅の刃では大豆ではなくて藤の花が鬼を遠ざけるとされていましたね。ちょうど母方の家が、デザインは違いますが藤の花の家紋の家であるので結構興奮した次第です。禰豆子の「豆」にも意味がありそうです。

 

そういえばこのすえひろの家ではイワシの頭をヒイラギの枝に刺した呪いのアイテムのようなおどろおどろしい見た目のものを玄関先に立てるのですが、それを話して同僚に驚かれてしまったことがあります。地域差のあることなのかもしれません。みなさまのご家庭ではいかがでしょうか。

 

参考文献:国立国会図書館/1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365 齋藤孝/節分と節供の民俗 吉晴飯/江戸散策

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