残暑の厳しい日々ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。熱中症には何卒お気をつけくださいませ。
先日まで歌舞伎座で上演されていた八月花形歌舞伎の第二部「真景累ヶ淵 豊志賀の死」にちなみまして、演目にまつわる重要なお名前についてお話しておきたいと思います。何らかのお役に立つことができれば幸いです。
江戸落語の集大成で近代落語の祖「三遊亭円朝」
「真景累ヶ淵 豊志賀の死」は、幕末から明治時代の落語家 三遊亭円朝の怪談噺「真景累ヶ淵」を原作とする演目です。
富本節の師匠・豊志賀が、年の離れた新吉と良い仲になり、嫉妬に狂って死んでしまうというお芝居ですが、原作は実に長い因果話が展開します。
今日こんにちより怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃たりまして、余り寄席で致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、却かえって古めかしい方が、耳新しい様に思われます
と始まるように、お化けが出てきておどろおどろという怪談ではなくて、心理的に追い詰められるような内容です。明治維新という大きな時代の変化を受けて、真景と神経をかけて怪談にも新奇な香りを漂わせたというわけです。
そんな原作を作った三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)は、怪談、人情噺を得意として創作落語を数多く手がけ、戸落語の集大成と語られる名人です。
天保10年(1839)江戸の湯島に生まれた円朝は、7歳で高座デビューするも、異父兄であった臨済宗のお坊さん玄昌のアドバイスで一時休席します。
そして紙屋へ奉公したり、浮世絵師の一勇気斎国芳のもとで浮世絵を学んだり、谷中の長安寺で仏教の修学に励むなどして少年期を過ごしました。この体験がのちの怪談噺創作に活かされ、因果応報や輪廻などの要素を盛り込んだ代表的怪談を生み出したとのことですので、玄昌さんは日本文化史に残る偉業に繋がるような素晴らしいアドバイスをされたことになりますね。
そんな少年期を経て、師匠の二代目円生のもとへもどり、17歳で円朝と改名し真打に。道具を使って人情噺を語る「芝居噺」や自作自演の噺で人気を獲得し、「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹灯籠」などの名作を生み出します。
しかし明治5年になると道具を使った噺はすべて弟子の円楽に譲り、自分は扇一本で語る素噺に専念するようになりました。そんな中で生まれたのが人情噺の名作「人情噺文七元結」や伝記ものの「塩原多助一代記」などです。先日米津玄師さんのMVで話題を呼んだ「死神」も、円朝の作のなかで特に有名なものです。
怪談噺、芝居噺、人情噺、落し噺といった江戸落語を集大成し、人情噺の話芸を完成、明治に入ってからは角界の要人と親交を深めて噺家の社会的地位を向上させた功績で、近代落語の祖とも呼ばれています。
そんな円朝は幕末期の名作者の河竹黙阿弥と親交を深めるなど、歌舞伎の影響を色濃く受けており、のちに劇化された創作噺も数多くあります。
円朝の落語を基にした芝居には主にこのようなものです。
「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」
「怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」
「怪談乳房榎(ちぶさえのき)」
「人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)」
どれもおもしろく人気のある演目です。上演の際にはぜひチェックなさってみてください!
参考文献:新版歌舞伎事典/日本大百科全書