新橋演舞場で上演されている團十郎襲名記念特別プログラム「SANEMORI」の上演に際して『源平布引滝』の内容を振り返るなかで、改めて物語の持つ魅力を感じました。
『源平布引滝』は比較的上演頻度の高い演目です。何度も拝見したつもりの演目でも、演者の方の影響や自分の成長に伴って視点が変わると、そのたびに新たな発見があります。そんなときつくづく歌舞伎はおもしろいなあと感じます。私は不勉強でして一度見ただけで全て理解できるわけではなく、とにかく時間がかかっていますが、そのぶん楽しみが長年続いているのではないかと踏んでいます。
そんな『源平布引滝』について、思いつくままつらつらと補足情報を述べてみたいと思います。何らかのお役に立つことができれば幸いです。
史実の木曽先生義賢
国立国会図書館デジタルコレクション
『源平布引滝』の木曽先生義賢は、平治の乱で兄の源義朝が討たれて平家に降伏。後白河法皇から源氏の白旗を賜ります。しかし平家方の討手が攻めこんできたために、我が子を身ごもっている葵御前と娘の待宵姫を落ち延びさせ、小万に源氏の白旗を託します。そして一人討手を迎え、壮絶な最期を遂げるのでした。
しかしながらこれはあくまでもフィクションの上の義賢であって史実の義賢についてよく存じ上げません。そのため少し調べたところ、どうも討手が違うようでした。
平家物語の言及を借りますとこのように書かれています。
平家物語
彼義賢、去仁平三年夏比より、上野国多胡郡に居住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養君となりて武蔵の国比企郡へ通けるほどに、当国にも不限、隣国までも随けり。かくて年月をふるほどに、久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に、大蔵の館にて、義賢、重隆ともに被討ちにけり
悪源太義平という人物。これは義賢の兄頼朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)、つまり義賢にとっては甥っ子にあたります。史実の義賢は同じ源氏の、しかも甥っ子に討たれていたということになります。これはこれでドラマチックです。
討たれたのは義賢が平家方に従ったことが原因なのかなと思いましたが、それはあくまでも「源平布引滝」の設定であって、史実の義賢は平家方に寝返ったというわけでもなさそうです。
そうなれば、なぜに甥っ子をはじめ鎌倉方ともめたのかが気になるところですが、「吾妻鏡」にもその理由は特に書かれていないのだそうです。義平が「悪源太(現代の善悪のニュアンスとは異なる)」と呼ばれているということは、義賢の問題点よりもむしろ義平の行動・活躍の方にインパクトがあったのだろうということも想像できます。
「源平布引滝」はただでさえ複雑に込み入った話ですから、義賢は平家方に従い、平家に討たれたという設定にした方がシンプルになりますね。しかしながら、「義賢最期」の場面は昭和期まで上演が途絶えていたことを考えますと、やはりよくわからない存在であったのだろうと思います。
むしろ悪源太の存在が魅力的に感じられ、気になるところですが、明治時代にずばり「悪源太」という演目が上演されていたそうです。拝見したことがないので復活の機会があることを祈っています。
参考文献:新版歌舞伎事典/歌舞伎登場人物事典/床本集/歌舞伎手帖/平家物語/中世・近世芸能が語り伝えた斎藤実盛 : 謡曲と『 源平盛衰記』を経て木曾義仲関連の浄瑠璃作品へ 岩城 賢太郎 武蔵野大学能楽資料センター紀要 2011-03-31