昨今、部屋に散り散りになっていた本をジャンルごとにまとめる作業をしているなかで、「役者絵と描かれている演目、そして役者本人について調べて情報をまとめたい」という思いが抑えられなくなりました。途方に暮れてしまいそうな作業で遠ざけていたのですが、やるなら今しかなさそうです。
個人的な趣味で、備忘録がてらまとめておきます。随時情報を書き加えるつもりです。ご興味お持ちでしたらお役立ていただければ嬉しく思います。
前回: 東洲斎写楽「二代目小佐川常世の一平姉おさん」
東洲斎写楽「四代目岩井半四郎の重の井」
出典:メトロポリタン美術館
上演・・・寛政六年(1794)五月五日初日 河原崎座
演目・・・恋女房染分手綱
役名・・・重の井
役者・・・四代目岩井半四郎
内容・場面
恋女房染分手綱
いわゆる「重の井子別れ」の場面。
由留木家の腰元・重の井と不義密通を犯し勘当となった伊達の与作は馬子に身をやつし、盗まれた用金の工面に苦心している。重の井と与作の間に生まれた子・世之助は、一平の世話になり馬子となって三吉と呼ばれていた。
ある日、重の井は姫君の乳母として三吉と再会。三吉は我が子であると悟るが、立場上母だと名乗ることができず別れていく。
四代目岩井半四郎
生没年:延享4年(1747)~寛政12年(1800)3月28日 享年54歳
名乗った期間:明和2年(1765)11月~寛政12年(1800)3月
屋号:雑司ヶ屋/大和屋
名乗りの経歴:松本長松→二代目松本七蔵→四代目岩井半四郎
当時の俳名:杜若
江戸の人形遣い辰松重三郎の子、のち岩井家の養子
二代目松本幸四郎(四代目團十郎)の門弟
まとめ
四代目岩井半四郎は、「白銀(目黒)の太夫」「お多福半四郎」と呼ばれて親しまれた江戸の名女形です。母と名乗れない悲しみがまなざしに見事に表現されていますね。
「お多福」というのはふっくらとした愛らしい輪郭の丸顔を表現したニックネームなのですが、写楽は割と面長に骨ばって描いているように見えます。
参考に、勝川春好の描いた四代目岩井半四郎をご覧に入れますと、こんなに丸顔であります。これはこれでかなりデフォルメされているのかもしれません。
出典:メトロポリタン美術館
岩井半四郎といえば女形の大きな名跡という印象がありますけれども三代目までは大坂の座元を兼ねた立役でした。岩井家が絶えるのを惜しんだ四代目市川団十郎が門下だった松本七蔵を養子として四代目半四郎を継がせ、四代目が大成したために今でも女形のイメージが強い名跡となったのであります。
とはいえこの方の芸域はかなり広く、娘、女房、若衆からなんと荒事まで得意としたそうです。三代目瀬川菊之丞とともに女形の双璧と呼ばれた人気者でした。
そんな三代目瀬川菊之丞はちょうど同じ月の都座「花菖蒲文禄曽我」に出演していますので、見物はどちらへ行こうかと悩み、小屋の方ではどちらが大入りを取れるか戦々恐々としていたのではないかなぁと想像されます。にぎにぎしい江戸の町が目に浮かぶようですね。
同じ写楽が描いた三代目瀬川菊之丞を比べてみますとこのような感じのお顔です。
出典:別冊太陽 写楽
幅の広い二重まぶただったのでしょうか。目鼻立ちのくっきりとした美しさで、やわらかでかわいらしい印象の四代目岩井半四郎とはまた違った魅力があります。
三代目瀬川菊之丞は美貌かつ真に女性のようなしとやかさであったそうで、女形として異例の座頭まで上りつめた名役者です。女形の双璧はそれぞれに違った魅力を放って燦然と輝いていたのでしょうね…寛政6年の江戸にタイムスリップしてみたいものです。
参考文献:歌舞伎俳優名跡便覧 第五次修訂版/増補版歌舞伎手帖/大写楽展/日本大百科全書/別冊太陽 写楽