ただいま歌舞伎座ではお正月公演壽 初春大歌舞伎が上演中です!
第二部「夕霧名残の正月」は、昨年亡くなられた坂田藤十郎さんを偲び、御子息の鴈治郎さんと扇雀さんによって上演されています。初代坂田藤十郎ゆかりの演目であり、それほど上演頻度も高くありませんので貴重な舞台です。
今回初めてご覧になる方もおいでかと思いますので、補足情報を少しばかりお話いたします。何らかのお役に立てればうれしく思います。
夕霧太夫と引舟女郎
夕霧名残の正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)は、もともと延宝6年(1678)2月に大坂の荒木与次兵衛座にて初代坂田藤十郎によって初演された演目です。形こそ変わっていますが、実に340年以上も前に原形が生まれていたことになります。
清書七伊露八 もちつき夕霧伊左衛門 豊国 国立国会図書館デジタルコレクション
「夕霧名残の正月」の演目の題材となっているのは、大坂新町の名妓として名を馳せながらも若くして亡くなった実在の花魁・夕霧太夫と、その死を悲しむ恋人・藤屋伊左衛門。この演目を皮切りに二人の恋模様を描いた演目が数多く作られ「夕霧狂言」と呼ばれるジャンルを築くほどであったということはその二でお話いたしました。
江戸前期の人物でありながら、昭和に入っても追善供養が行われるほど人々に長く愛されていた夕霧太夫という女性は、一体どんな人物であったのかが気になるところです。
夕霧太夫はもともと京都島原で人気の遊女でありましたが、寛文12年(1672)に扇屋抱えとなって大坂新町へ移りました。絶世の美女との評判がすでに広まり、大坂の川筋が一目見ようとする見物の人々でごった返したといわれています。
絶世の美女であるばかりか芸事にもすぐれ、性格や立ち居振る舞いもしとやかで優しく、さらに聡明であったという夕霧太夫は大坂でも大評判を呼びましたが、あまりの人気ぶりでお客さんをさばききれなくなってしまいます。
そこで編み出されたのが「引舟女郎」というシステムでした。夕霧太夫がそこそこのクラスの鹿子位の位の女郎さんを連れ歩き、この女郎さんが一足先にお客さんの相手をして座をあたためておく…というものです。相当の回転数が伺える働きぶりです。
そのような激務がたたってか、夕霧太夫は大坂に映ってからわずか5年、延宝5年(1677)の秋に病に倒れ、翌年の一月七日には儚くなってしまったのでした…
夕霧太夫の死は「夕霧忌」が晩冬の季語になるほどのインパクトを与えていますが、それほどまでに素晴らしい女性であったのなら、ぜひ生きて花街を出て好いた方と幸せに生きてほしかったと、なんとも悲しい気持ちになります。
そんな夕霧の恋人と言えば藤屋伊左衛門で、さも存在するかのように書いてきてしまったのですが、実は藤屋伊左衛門そのものは架空の人物であります。
しかしモデルはいて、阿波屋のだれそれという大坂のお金持ちであるといわれています。夕霧が病気になってしまってからもお世話をして、亡くなった後も大切に弔ったそうであります。この方が「夕霧名残の正月」をどう見たのか気になるところです。
それはそうと、壱太郎さんのyoutubeチャンネルかずたろう歌舞伎クリエイションで、夕霧の衣裳が紹介されていて、必見です。昨年の京都の顔見世興行「廓文章 吉田屋」に先立ってのものでした。
松竹衣裳はこのすえひろ憧れの就職先でしたが夢破れてここにおります。youtubeでそのお仕事のようすが拝見できるとは良い時代になったものだなあと感慨深く思います。
参考文献:新版歌舞伎事典/ブリタニカ国際大百科事典/歌舞伎手帖/元禄歌舞伎攷/耳塵集/歌舞伎登場人物事典