歌舞伎ちゃん 二段目

『歌舞伎のある日常を!』 歌舞伎バカ一代、芳川末廣です。歌舞伎学会会員・国際浮世絵学会会員。2013年6月より毎日ブログを更新しております。 「歌舞伎が大好き!」という方や「歌舞伎を見てみたい!」という方のお役に立てればうれしく思います。 mail@suehiroya-suehiro.com

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ストリートビューで歌舞伎ゆかりの地に行ってみた 夕霧名残の正月 編

新型コロナの外出自粛期間に始めた「Googleストリートビューで芝居の舞台となった場所とその周辺を訪ねてみる」という遊び。本日もひとつ訪ねてみようと思います。ゆるゆるとした旅ですがみなさまもぜひご一緒にいかがでしょうか。

先日、歌舞伎座で千穐楽を迎えた壽 初春大歌舞伎にちなみまして、第二部「夕霧名残の正月」ゆかりの地をうろうろしてみたいと思います。行き当たりばったりのうえ、事情があり画像そのものを貼ることができず地図埋め込みとなりますが、何卒ご了承くださいませ。

前回:日本振袖始 編

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夕霧名残の正月とは

夕霧名残の正月」は、大坂新町の扇屋で名を馳せた実在の花魁・夕霧太夫の死の直後に上演された演目。和事の創始者として知られる初代坂田藤十郎が、夕霧太夫に入れあげ勘当されてしまった豪商藤屋伊左衛門を勤めました。夕霧太夫の死を悼んで悲しみに暮れる伊左衛門のもとへ、亡くなったはずの夕霧太夫が現れ、しばし二人で幸せな日々を思い返す…という切ない一幕です。

 

さっそく行ってみましょう

この演目のゆかりの地と言えばやはり、徳川幕府によって日本ではじめて公認された花街である大坂新町であります。

夕霧名残の正月に限らず、近松の演目を筆頭にしばしば登場する場所です。芝居町の道頓堀から北西の方角に、かつては華やかな色町が存在していたのですね。

 

 

暗がりになっていて少し見えづらいのですが、ガード下の歩道沿いに置かれている古風なモニュメント的な物体が「新町橋の碑」です。このあたりが塀で囲まれ、東口の大門が設置されていたようです。

 

 

かつてはここに西横堀川という川が流れ、新町橋という橋が架かっていていたそうです。この道が道頓堀の芝居小屋や船場の商人町へと続く唯一の通路であったとのことで、芝居見物をした後の人々がここへと流れ込んでいたのでしょうか。

あるいは、商家の若旦那がこの通りを通い詰めて遊女に入れあげ、店のお金をつぎ込んで勘当され、紙衣を着てうろうろしたりといった、芝居のようなシーンが繰り広げられていたかもしれません。

 

 

ここは扇屋のあった瓢箪町と呼ばれた通りです。

現代ではちょうど東京の日本橋や京橋のような雰囲気で、どうやらオフィス街のようですが、江戸時代には大きなお茶屋がずらりと並ぶ夜の街でありました。

 

 

かつては夜桜の名所であったという新町北公園へやってきました。

花魁道中などが行われていたのでしょうか。夜桜の下をゆっくりゆっくりと船のように歩く夕霧太夫、さぞかし美しかったことであろうと思います。

 

 

そんな新町のなかに、「がんじろはん」と呼ばれて愛された初代中村鴈治郎生誕の地の碑が立っています。初代鴈治郎はお茶屋・扇屋の娘さんと、扇屋に出入りしていた三代目翫雀の間にできた子であるからです。これもなんともドラマチックなお話です。

 

天王寺に夕霧太夫のお墓があるそうですから、少し足をのばしてみましょう。

夕霧太夫のお墓があるのは天王寺の「淨國寺」なるお寺で、このあたりのようです。

 

 

雰囲気のよいこじんまりとしたお寺であります。

遠巻きながらお参りをして、庭を見物させていただきます。

 

 

満開の桜が咲き乱れている美しいお庭です!たくさんのお墓が並んでいる場所ですのでここに載せるのははばかられましたが、ストリートビューには桜のほかにもさまざまな花々が咲き誇っているようすが写されていました。

絶世の美女であるうえに心優しく聡明で、その死に際し町中が悲しみに暮れ、時代を超えて誰もに愛され、数十年にわたり供養行事が執り行われ続けたという夕霧太夫がここに眠っていると思えば、あまりにも絵になる風景です。

 

 

 見えにくいのですが、 夕霧太夫らしき女性の横顔が描かれたレリーフが置かれています。淨國寺では現在も夕霧太夫のお墓参りに訪れる人が絶えないそうです。 

このすえひろも大坂で心置きなく観光できるようになった暁にはぜひお参りをしたいと思います!

参考文献:大阪あそ歩

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