ただいま歌舞伎座で上演中の吉例顔見世大歌舞伎
第二部「寿曽我対面」は、十世 坂東三津五郎七回忌追善狂言としての上演で、御子息の巳之助さんがゆかりの曽我五郎をお勤めです。菊五郎さんの工藤祐経、時蔵さんの十郎、雀右衛門さんの大磯の虎といった豪華な配役の素晴らしい一幕であります。
この機会に少しばかり演目について掘り下げてみたいと思います。芝居見物や配信の際など何らかのお役に立てればうれしく思います。
曽我兄弟のその後
壽曽我対面(ことぶきそがのたいめん)は、江戸時代に人気を博した「曽我物語(そがものがたり)」を題材とした演目。曽我兄弟が工藤祐経に会う、つまり対面するというだけの場面で、単に「対面(たいめん)」とも呼ばれます。歌舞伎で対面と言えば、この演目のことを指します。
「曽我物語」というのは、曽我十郎・五郎という兄弟が、亡き父・河津祐通の仇である工藤祐経を富士の裾野で見事討ち果たすという敵討ちの物語です。鎌倉時代初期に起こった実話を基にしていると伝わります。
曽我兄弟の登場する曽我狂言がお正月の慣例となって以降、お約束のこの場面はさまざまなアレンジが行われました。江戸時代においては演目のフィナーレに華やかな出で立ちの役者がズラリと揃って新年を祝うという、ショーのような側面があったものと思われます。現在見ることができるのは、河竹黙阿弥が明治時代にまとめた台本をもとにしたものです。
三代豊国 曽我五郎時宗・小林朝比奈 国立国会図書館デジタルコレクション
本当にざっくりとした内容は下記のような流れです。
①工藤祐経の館で総奉行就任の祝賀会が行われている
②そこへ小林朝比奈の紹介で曽我兄弟がやってきて工藤と対面
③はやる気持ちを押さえられない弟の五郎を兄の十郎や小林朝比奈がなだめる
④工藤は兄弟との再会を約束する
非常にシンプルな内容であり、起承転結をもった物語はないのですが、舞台の上で起こることに沿って内容やお約束をお話してまいりました。
改めて内容をふりかえってみますと、曽我兄弟がその後どうなってしまったのかが気になってきましたので、辞書に書かれている限りの史実の方の結末を調べてみました。少しばかりご紹介いたします。
今から830年ほど前の建久4年(1193)5月、富士野の巻狩りが源頼朝の主催で催されました。これは一カ月にわたる大きな軍事訓練で、私は武家政権のリーダーとして適任なんですよということと、東国武士の力を京都の公家の人々にアピールする目的もあったようです。
そんな軍事訓練が進んでいた5月28日、雨の降る夜のこと。
富士山麓の野営地で宿泊していた工藤祐経は、雨風をおして侵入してきたた曽我十郎祐成・曽我五郎時致の兄弟に居場所を突き止められ、二人によって殺害されたのでした。
そして曽我十郎・五郎兄弟は、野営地の警備を行っていたさむらいたちと雨のなか戦い、十郎は仁田忠常によって殺されてしまいます。斬られてしまったという結末であるから、十郎の人物描写はソフトなのでしょうか。
「曽我物語」での十郎殺害の場面は、仁田忠常が猪(実は山神)に逆さまに乗って十郎を仕留めたという、漫画のようなエピソードで描かれています。
五郎の方はといえば、そのまま頼朝までもを襲って捕えられてしまいます。荒くれ者として描かれるのも納得の血気です。
一旦は五郎を許そうとした頼朝でしたが、工藤祐経の子息・犬房丸の訴えによって五郎の処刑を決め、五郎は翌日処刑されてしまったのでした…。
亡くなり方はそれぞれですが、結局二人とも敵討ちから間もなく命を落としてしまったことになります。
仇討ちは果たしても、結局は命を奪われねばならず、さらに親を討たれた子供を増やしてしまったという悲しみの連鎖です。つらい人の世です。
それでもひたむきに父の仇への復讐を目指したという兄弟のまっすぐな心が江戸の人の心をとらえたのかもしれません。
参考文献:新版歌舞伎事典/日本大百科事典/歌舞伎手帖 渡辺保/歌舞伎の名セリフ/歌舞伎オンステージ 助六由縁江戸桜 寿曽我対面